同じ71歳でも、認知症の症状がすでに出ている人と、まだ出ていない人がいる。その差を分けている要因のひとつが「若いころから二つの言語を使い続けてきたかどうか」だとしたら、どう思うでしょうか。
これは占いでも都市伝説でもありません。カナダとインドで独立に行われた2本の患者記録調査は、生涯にわたって二言語を使ってきた人ほど、認知症の症状が数年遅く現れるという共通した結果を報告しています。年齢を重ねてから外国語を学ぶことに意味はあるのか——そんな疑問への手がかりにもなる研究です。
ただし、話はそう単純ではありません。「バイリンガルは頭がいい」という主張には、実は科学者のあいだでも意見が割れている部分があります。良いところも、まだ確立していないところも、両方を論文ベースで見ていきましょう。
なぜ「二言語を使う脳」が注目されるのか
二つの言語を話す人の頭の中では、静かに常時稼働しているシステムがあります。英語で話しているあいだも、脳内では日本語がまったく眠っているわけではありません。言葉を発するたびに、使わないほうの言語を脇に押しやり、使うほうの言語だけを選び取るという作業が、意識されないまま繰り返されています。
この「片方を抑え、片方を選ぶ」という作業を担っているのが、脳の実行制御ネットワーク(executive control network=注意の切り替えや不要な情報の抑制を担う神経回路)だと考えられています。ふだん意識することはありませんが、二言語話者はこの回路を、会話のたびに、生涯にわたって使い続けていることになります。
ジムのたとえで言えば、二言語話者は知らないうちに毎日欠かさずスクワットをしているような状態です。本人はトレーニングのつもりはなくても、使わない言語を抑え込む動作そのものが、負荷になり続けている。研究者たちが注目したのは、この「隠れたトレーニング」が、加齢とともに脳をどう守るのかという問いでした。
実験:2つの国で、患者記録をさかのぼって調べた
この分野を切り開いたのが、カナダ・ヨーク大学のEllen Bialystok、Fergus Craik、Morris Freedmanが2007年に『Neuropsychologia』誌で発表した研究です。もの忘れ外来を受診した患者228人の記録から、認知症と診断された184人(モノリンガル91人・バイリンガル93人)を抽出し、「症状に初めて気づいた年齢」を比較しました。教育年数・職業・性別・移民歴といった、結果に影響しそうな要因もあわせて調整されています。
この結果を、まったく異なる文化圏で確かめたのが、インド・ハイデラバードで行われたSuvarna Alladiらの研究です。2013年に『Neurology』誌に発表されたこの研究では、648人の認知症患者(うちバイリンガル391人)の記録を分析しました。ハイデラバードはテルグ語・ウルドゥー語・ヒンディー語・英語が飛び交う多言語都市で、カナダの調査とは言語も文化的背景もまったく異なります。しかもこの研究では、読み書きができない(教育を受けていない)患者もサンプルに含まれていました。
結果:症状は平均4〜4.5年遅く現れていた
Bialystokらの2007年の研究では、モノリンガル群が症状に気づいた平均年齢は71.4歳だったのに対し、バイリンガル群は75.5歳でした。差はおよそ4年。認知機能そのものの検査結果に群間の差はなく、単に「症状が現れるタイミング」だけがずれていたと報告されています。
Alladiらの2013年の研究でも、バイリンガル群は平均4.5年遅く症状が現れていました。しかもこの差は、アルツハイマー型・前頭側頭型・血管性という主要な認知症のタイプすべてで確認され、教育を受けていない患者の集団の中でも同じ傾向が見られたと報告されています。つまり、識字率や教育年数だけでは説明がつかない差だということです。
| 研究 | 対象 | 症状が現れた年齢の差 |
|---|---|---|
| Bialystokら (2007・カナダ) | 患者184人 | バイリンガル群が約4年遅い |
| Alladiら (2013・インド) | 患者648人 | バイリンガル群が約4.5年遅い |
この2本にとどまらず、複数の研究を統合したメタ分析でも同じ方向の結果が確認されています。2020年に『Journal of Alzheimer's Disease』などに報告された系統的レビューでは、バイリンガルはモノリンガルより症状の出現が平均4.7年、診断そのものが平均3.3年遅いという統合値が示されました。国や文化が違っても再現される現象だという点は、この分野ではめずらしいほど一貫しています。
なぜこうなるのか:「認知の予備力」という考え方
ここで登場するのが認知予備力(cognitive reserve=脳にダメージが蓄積しても、機能を保てるだけの"余裕"のこと)という考え方です。認知症は、脳内にダメージ(病変)が一定量たまってから初めて、記憶や判断力の目に見える低下として表に出てくると考えられています。予備力が大きい脳ほど、同じ量のダメージが蓄積しても症状として表面化するまでの時間が長い、というのがこの理論の骨子です。
Albert Costa、Mireia Hernández、Núria Sebastián-Gallésが2008年に『Cognition』誌で発表した研究は、この予備力の中身を覗く手がかりを与えてくれます。彼らはATN課題(attention network task=注意力の3つの側面を測るテスト)を使ってバイリンガルとモノリンガルの若年成人を比較し、注意の競合(相反する情報のどちらかを選ぶ場面)を処理する実行制御の働きに違いが見られたと報告しました。二言語を切り替える練習を日常的に積んできた脳は、無関係な情報を抑え込む筋力がついている、という解釈です。
言い換えると、二言語話者が積み重ねているのは単語の知識だけではなく、「切り替える」という運動そのものだということです。この運動が長年蓄積することで、脳のダメージに対する余裕が生まれ、結果として症状が表面化するタイミングが後ろにずれる——というのが、現時点で有力視されている説明です。
この話、こう使える
「では今から英語を学べば認知症を防げるのか」と早合点したくなりますが、研究が示しているのはそこまで単純な話ではありません。それでも、この研究から持ち帰れる実践的な示唆はあります。
注意点:この研究の限界
希望の持てる結果ですが、正確に理解するために、研究が示していないことも明記しておきます。
- これは相関研究であり、因果関係を証明したものではない。 患者記録をさかのぼって調べる後ろ向き研究(レトロスペクティブ研究)のため、バイリンガルであることそのものが原因なのか、バイリンガルになりやすい生活習慣(社会的な交流の多さなど)が背景にあるのかを完全に切り分けることはできません。
- 「バイリンガルは実行機能テストの成績が良い」という主張には出版バイアスの疑いがある。 de Bruin、Treccani、Della Salaが2015年に『Psychological Science』誌で報告した調査では、1999〜2012年の学会発表を追跡したところ、バイリンガル優位を支持する結果を含む発表は63%が論文として出版されたのに対し、優位性が見られなかった発表は36%しか出版されていませんでした。つまり「効果が出た研究のほうが論文になりやすい」という偏りが、この分野の"常識"を実際より大きく見せてきた可能性があります。
- ただし認知症の発症年齢という臨床データは、この出版バイアスの議論とは別枠で扱われている。 カナダとインドという別々の集団で同じ方向の結果が出ており、複数のメタ分析でも一貫して支持されています。健常な若年成人の実験室課題(ANT課題など)をめぐる論争と、高齢者の臨床記録をめぐる知見は、証拠の強さが異なる点に注意が必要です。
- 軽度認知障害(MCI)の段階では差が見られないという報告もある。 認知症の一歩手前とされるMCIの診断年齢については、バイリンガルとモノリンガルで明確な差が確認されていません。効果は「症状がはっきり認知症の域に達した段階」で顕著になる可能性が指摘されています。
まとめると、「二言語を使い続けることは、脳に何らかの余裕を生む可能性が高い。しかし、それは魔法の予防接種ではない」というのが、現時点でもっとも正直な理解です。
よくある質問
今日の3行まとめ
仕組みとして有力視されているのは、言語を切り替える作業が脳の実行制御ネットワークを鍛え、「認知の予備力」を積み上げるという考え方です。
ただしこれは発症を防ぐ効果ではなく、遅らせる効果であり、なるべく長く二言語に触れ続けることが、理屈のうえでは理にかなっています。
継続を後押しする仕組みが欲しい人は、英会話の独学ロードマップもあわせてどうぞ。無理のないペースで「使い続ける」ことに焦点を当てた内容です。
今日の記事で鍵になった"言語を切り替える"作業を、そのままブラウザで練習できます。日本語を見て英語を口に出す、シンプルな積み重ねです。
瞬間英作文トレーニングをやってみる →参考文献
- Bialystok, E., Craik, F. I. M., & Freedman, M. (2007). Bilingualism as a protection against the onset of symptoms of dementia. Neuropsychologia, 45(2), 459–464. 論文を見る
- Alladi, S., Bak, T. H., Duggirala, V., et al. (2013). Bilingualism delays age at onset of dementia, independent of education and immigration status. Neurology, 81(22), 1938–1944. 論文を見る
- Costa, A., Hernández, M., & Sebastián-Gallés, N. (2008). Bilingualism aids conflict resolution: Evidence from the ANT task. Cognition, 106(1), 59–86. 論文を見る
- de Bruin, A., Treccani, B., & Della Sala, S. (2015). Cognitive advantage in bilingualism: An example of publication bias? Psychological Science, 26(1), 99–107. 論文を見る
- Bak, T. H., et al. (2020). Bilingualism Is Associated with a Delayed Onset of Dementia but Not with a Lower Risk of Developing it: a Systematic Review with Meta-Analyses. Journal of Alzheimer's Disease. 論文を見る