頭に映像ディスプレイをつけ、自分の背中を映したカメラの映像を見せられる。その間、実験者が自分の胸を指で触れると、映像の中の"後ろ姿の自分"の胸も同時に触れられる。これだけの仕掛けで、少なくない人が「自分は今、体の外にいる」と感じ始めます。
臨死体験や幽体離脱というと、長らくスピリチュアルな話題として扱われてきました。しかし2007年、科学誌『Science』に、この"体外離脱"を健康な人の脳の中で実験的に再現したとする論文が同じ号に2本同時掲載されるという出来事がありました。さらにその5年前には、脳のある一点を電気で刺激しただけで患者に体外離脱が繰り返し起きたという症例報告も発表されています。
今回は、スウェーデン・カロリンスカ研究所のHenrik Ehrssonらの実験と、スイス・ローザンヌのOlaf Blankeらの一連の研究をもとに、脳が「自分は今どこにいるか」をどう決めているのかを、論文ベースで解説します。
なぜ「自分の位置」は脳の問題になるのか
当たり前のことのようですが、私たちは常に「自分はこの体の中にいる」と感じています。目で見ている景色の起点も、触られている感覚の発生源も、すべて自分の体の内側にある——この感覚は身体的自己意識(bodily self-consciousness)と呼ばれ、長らく「当然そうなっているもの」として深く疑われてきませんでした。
ところが、脳卒中やてんかんの患者の一部が、発作の最中に「自分が体から浮き上がって、斜め後ろから自分の体を見下ろした」という体験を報告することが知られていました。幻肢痛(失った手足がまだあるように感じて痛む現象)の研究などから、「自分の体がどこにあるか」という感覚は、固定されたものではなく、脳が複数の感覚情報をリアルタイムで統合して作り出している"計算結果"にすぎないのではないか——という考え方が研究者の間で広がっていきます。
この仮説を確かめる方法が、健康な人を対象に、体外離脱に似た感覚を実験室で人工的に起こしてみることでした。
実験:カメラと頭部ディスプレイで"後ろから自分を見る"
2007年8月24日号の『Science』に掲載されたEhrssonの論文では、参加者は頭部に映像ディスプレイを装着し、自分の背後2m(約6.5フィート)に置かれた2台のカメラの映像を、左右の目でそれぞれ見せられます。立体視により、参加者の視点は自分の後方に"抜け出した"状態になります。
実験者は、参加者の実際の胸を棒で触れながら、同時にカメラの前(映像の中では参加者自身の胸に見える位置)も同じように触れます。視覚(後ろから自分の胸が触られるのが見える)と触覚(実際に胸が触られる感覚)が同時に起きることで、脳は「あの映像の中の体が自分だ」と錯覚しやすくなります。対照条件では、この視覚と触覚のタイミングをわざとずらすことで、錯覚が起きにくい状態と比較しました。
同じ号に掲載された、ローザンヌ大学のBigna LenggenhagerとOlaf Blankeらの論文(通称"Video ergo sum")も、よく似た手法を使っています。14人の参加者の背後にカメラを置き、頭部ディスプレイで"自分の後ろ姿"を見せながら背中を棒でなでる実験です。こちらは体外離脱の有無だけでなく、「自分はどこに立っていると感じるか」を目を閉じてから数歩歩いて示してもらうという、より客観的な方法で自己の位置感覚を測定しました。
結果:触覚と視覚が一致した人ほど、"外から自分を見た"と答えた
Ehrssonの実験では、視覚と触覚のタイミングを一致させた条件で、参加者はアンケートの「自分が体から離れて、別の場所から自分を見ているように感じた」という項目に、ずらした条件よりも強く同意する傾向を示しました。
さらにEhrssonは、12人の参加者を対象に、錯覚が起きている最中に映像の中の"自分の胸"をハンマーで叩く真似をして脅すという追加実験を行っています。本当に痛い目には遭わないにもかかわらず、視覚と触覚が一致していた条件では、一致していない条件に比べて皮膚の発汗反応(SCR=皮膚コンダクタンス反応。驚きや恐怖で自律的に汗が増える反応)が有意に大きくなったと報告されています(統計的検定でP<0.013)。脳は、映像の中の体を"自分の体"として扱い、脅威に対して本物の体のように反応したことになります。
Lenggenhagerらの実験でも、視覚と触覚を一致させた条件では、参加者が目を閉じて示す「自分がいると感じる位置」が、実際に立っている場所から映像の中の体の方向へわずかにずれるという結果が得られました。自分の位置感覚そのものが、視覚情報によって引っぱられたのです。
2008年には、同じEhrssonの研究グループがさらに一歩進んだ実験を発表しています。32人の参加者にマネキンの頭部に取り付けたカメラの映像を見せ、マネキンの体と自分の体を同時に棒でなでる「ボディ・スワップ(身体交換)錯覚」の実験です。参加者はマネキンの体を自分の体のように感じ、マネキンをナイフで刺す真似をされると、やはり皮膚の発汗反応を示しました。一方、同じ大きさの椅子や箱に"乗り移った"と信じさせることはできなかったという対照実験の結果も報告されており、錯覚が起きるのは「人間の形をした体」に限られることが示唆されています。
| 研究 | 方法 | 主な結果 |
|---|---|---|
| Ehrsson (2007) | 後方カメラ+同時タッチ | 体外離脱に近い感覚。脅威への皮膚発汗反応(P<0.013) |
| Lenggenhager et al. (2007) | 後方カメラ+同時タッチ(14人) | 自己の位置感覚が映像の体の方向へ移動 |
| Petkova & Ehrsson (2008) | マネキン頭部カメラ(32人) | マネキンの体を"自分"と錯覚。箱や椅子では再現せず |
| Blanke et al. (2002) | 右角回の電気刺激(症例報告) | 体外離脱・身体変形の錯覚を繰り返し誘発 |
なぜこんなことが起きるのか
手がかりになるのが、2002年に『Nature』誌に発表されたBlankeらの症例報告です。てんかんの手術前検査を受けていた43歳の女性患者の脳表面を、場所を変えながら電気で刺激したところ、右の角回(かくかい=側頭葉と頭頂葉の境目にある部位。temporoparietal junctionの一部)を刺激したときだけ、「体から落ちていく」「自分の足が短くなった」といった体外離脱に似た感覚が、刺激のたびに繰り返し生じました。てんかんの発作自体はこの部位から5cm以上離れた場所で起きていたため、角回の刺激そのものがこの感覚を引き起こしていたと考えられています。
この部位は、目から入る視覚情報・皮膚から入る触覚情報・筋肉や関節から入る情報(固有感覚)を統合して、「自分の体がどこにあるか」を脳の中で組み立てている場所の一つだと考えられています。たとえるなら、角回は複数のセンサーからの信号を1枚の地図にまとめる"管制室"のような役割です。普段は視覚・触覚・固有感覚の情報がぴたりと一致しているので、管制室は迷わず「自分はここにいる」という地図を描けます。
ところがEhrssonらの実験のように、視覚だけ別の場所(後方のカメラ映像)から来る状態を人工的に作ると、管制室は矛盾した情報を受け取ることになります。そのとき脳が選んだ"落としどころ"が、「視覚の情報を信じて、自分の位置をそちらにずらす」という処理だったと考えられています。体外離脱は神秘的な現象というより、複数の感覚のあいだで生じた"つじつま合わせ"の結果だ、というのがこの分野の研究者の見立てです。
この話、こう使える
この研究が直接教えてくれるのは、英語学習のテクニックではありません。ですが、「当たり前だと思っている感覚も、実は脳が複数の情報をすり合わせて作っている」という視点は、学習や思考のクセを見直すヒントになります。
- 「分かった気がする」も感覚の一種だと疑ってみる。 体の位置感覚と同じように、「理解した」という手応えも、複数の情報(読んだ量・聞き覚えのある響き・周りの反応)を脳がすり合わせて作っている感覚にすぎません。手応えと実際の理解度がズレることは珍しくありません。
- VRやアバターを使った学習・トレーニングに可能性がある。 視覚情報を変えるだけで自己の感覚が揺らぐという今回の知見は、VR空間で外国人として振る舞う視点を体験させる、といった没入型の語学・異文化トレーニングの土台になる発想です。実際にEhrssonらの研究グループも、アバター技術への応用を論文の中で言及しています。
- 「視点を変える」は比喩ではなく、脳のレベルで起きている。 他人の立場に立って考える、という行為は精神論に聞こえますが、この一連の研究は、視点(視覚的な立ち位置)を変えるだけで自己の感覚そのものが変化しうることを示しています。相手の視点を想像する練習は、思っている以上に"効く"のかもしれません。
注意点:この研究の限界
- サンプル数が小さい。 Ehrssonの皮膚発汗反応の実験は12人、Lenggenhagerらの実験は14人という小規模な研究です。Blankeの症例報告は患者1名の観察にもとづいています。再現性の確認は今も続いている分野です。
- 報告された感覚には個人差があり、全員が「完全に体を抜けた」と答えたわけではありません。 アンケートの同意度には幅があり、強く感じた人もいれば、違和感程度だった人もいます。
- 臨床での体外離脱・臨死体験とは文脈が異なります。 実験室の錯覚は数分間の人工的な操作によるもので、強い恐怖や生命の危機を伴う臨床的な体験とは条件がまったく違います。両者がどこまで同じ仕組みで説明できるのかは、今も研究が続くテーマです。
- 相関と因果の混同に注意。 角回の刺激で体外離脱に似た感覚が生じたことは、その部位が感覚の統合に関わっている有力な根拠にはなりますが、「体外離脱の原因はすべてこの一点にある」と単純化できるものではありません。
よくある質問
今日の3行まとめ
視覚だけを後方のカメラに差し替えるだけで、少なくない人が「体から抜け出た」と感じ、脅威に対して本物の体のように反応しました。
体外離脱は神秘現象というより、複数の感覚のあいだで起きた"つじつま合わせ"だと考えられています。
脳の不思議つながりで、英語脳年齢テストで自分の脳の反応速度を測ってみるのもおすすめです。ほかの"脳のクセ"を扱った記事は英語の雑学・豆知識にもまとめています。
感覚のズレが錯覚を生むように、学習のつまずきにも"気づきにくいクセ"が隠れています。30秒であなたの英語学習タイプを診断できます。
英語学習タイプ診断をやってみる →参考文献
- Blanke, O., Ortigue, S., Landis, T., & Seeck, M. (2002). Stimulating illusory own-body perceptions. Nature, 419(6904), 269–270. 論文を見る
- Ehrsson, H. H. (2007). The Experimental Induction of Out-of-Body Experiences. Science, 317(5841), 1048. 論文を見る
- Lenggenhager, B., Tadi, T., Metzinger, T., & Blanke, O. (2007). Video Ergo Sum: Manipulating Bodily Self-Consciousness. Science, 317(5841), 1096–1099. 論文を見る
- Petkova, V. I., & Ehrsson, H. H. (2008). If I Were You: Perceptual Illusion of Body Swapping. PLoS ONE, 3(12), e3832. 論文を見る