植物でも藻でもない、硫化水素の匂いが漂うような環境を好む原始的な細菌がいる。2007年、物理学者たちはその細菌のタンパク質の中で、量子力学の奇妙なふるまいを目撃したと発表した。太陽光から受け取ったエネルギーが、まるで一度に複数の道すべてを試しているかのように振る舞っていたのだ。
この現象は「量子コヒーレンス」と呼ばれ、量子コンピューターが計算を高速化する仕組みと同じ原理だとされた。メディアは「光合成は量子計算をしている」と報じ、世界中の物理学者が色めき立った。だが、この発見から10年余りが経った今、その解釈そのものが大きく書き換えられている。実在する3本の論文をたどりながら、一つの"大発見"が覆っていく過程を追ってみよう。
なぜ光合成の効率が科学者を悩ませてきたのか
光合成の第一段階は、太陽光のエネルギーを吸収し、それを反応中心(エネルギーを化学エネルギーに変換し始める場所)まで届ける作業だ。研究者の間では、この受け渡しが驚くほど無駄なく進む、近い値で報告されることが多い。常温・常圧というノイズの多い環境でこれだけの効率を保てるのは、生物学的にも物理学的にも不思議な話だとされてきた。
この受け渡しを担うのが、緑色硫黄細菌(Chlorobium tepidum)が持つFMO複合体(Fenna-Matthews-Olson複合体)というタンパク質だ。大きな光集めアンテナ(クロロゾーム)と反応中心をつなぐ「配線」のような役割を持つとされている。古典的な説明では、エネルギーはこの配線の中を、バケツリレーのように一歩ずつ、ランダムに飛び移っていく(ホッピング)と考えられてきた。ただ、ランダムな飛び移りだけで、この高効率をどこまで説明できるのかには、以前から疑問が残っていた。
実験:フェムト秒単位で"光の指紋"を追いかける
カリフォルニア大学バークレー校のGraham R. Flemingらの研究チームは、Gregory S. Engelを筆頭著者として、FMO複合体を液体窒素で77ケルビン(マイナス約196℃)まで冷やし、2次元電子分光という手法で観察した。これは、超短パルスのレーザー光を複合体に当て、1000兆分の1秒(フェムト秒)という極めて短い時間刻みで、エネルギーがどの経路をどう移動しているかを追跡する技術だ。
観測は、最初の光パルスを当てた瞬間から0〜660フェムト秒後までの33時点で行われた。この研究はGregory S. Engel、Tessa R. Calhoun、Elizabeth L. Readらを著者として、2007年に『Nature』誌に掲載されている。
結果:理論の予測を2倍以上上回って、ゆらぎが消えなかった
当時の理論モデルでは、電子の量子コヒーレンスは熱ノイズによっておよそ250フェムト秒ほどで失われると予測されていた。ところがEngelらが観測した信号は、660フェムト秒経っても明確に振動を続けていた。論文では、この振動の強さが理論モデルの予測を明らかに上回っていたと報告されている。著者らは、この振動が分子そのものの揺れ(振動運動)だけでは説明しにくく、電子レベルの量子コヒーレンスが関わっている証拠だと解釈した。
ところが2017年、Hong-Guang Duanらの研究チームが『PNAS』誌に発表した追加実験で、話が変わる。彼らは77ケルビンではなく室温・水溶液中でFMO複合体を測定し、初期状態の作り方を変えることで、電子コヒーレンスと分子振動による信号を区別しようとした。その結果、電子の量子コヒーレンスは60フェムト秒ほどで失われるという、従来の「古典的な」予測に近い結果が得られたと報告している。
なぜ"同時に複数の道を試す"と考えられたのか
当初の解釈が、なぜそれほど多くの関心を集めたのか。それは、量子コヒーレンスという現象が、エネルギーの移動を根本的に違うものにすると考えられたからだ。
古典的なホッピングのイメージは、目を閉じた人がバケツリレーで一歩ずつ手探りに次の人を探すようなものだ。一本道を行き当たりばったりに進むため、どうしても時間と無駄が生まれる。これに対し量子コヒーレンスが働いている状態は、池に石を投げたときに広がる波紋に近いとたとえられる。一点から広がった波が、複数の経路を同時に伝わっていき、波どうしが干渉し合うことで、もっとも効率のよい経路が自然と強め合って浮かび上がってくる——というイメージだ。量子コンピューターが多数の可能性を同時に計算して答えを導く仕組みと重ねて語られたのは、このためだった。
この話、こう使える
この一連の流れから持ち帰れるのは、「光合成の仕組み」そのものよりも、科学ニュースとの向き合い方かもしれない。「〇〇という大発見!」という見出しを見たとき、それが単独の研究チームによる最初の報告なのか、すでに複数の研究室で再検証された話なのかを、一度立ち止まって確認する癖をつけると、情報の見え方が変わってくる。
これは英語学習の情報を見るときにも同じことが言える。「この勉強法で誰でも3カ月で話せる」といった断定的な見出しほど、元になっている研究の条件や被験者数を確認する価値がある。当サイトのAIで英語を学ぶのコーナーでも、新しいツールやメソッドの効果を鵜呑みにせず確かめる視点を扱っている。興味のある人はあわせて読んでみてほしい。
注意点:この研究の限界
- 「量子生物学」自体が否定されたわけではない。 FMO複合体の長寿命コヒーレンスという個別の主張が揺らいだだけで、渡り鳥の磁気感知など、別の現象では量子効果の証拠がより支持されている例もある。
- 2020年のレビューも万能の結論ではない。 Jianshu Caoらを含む18名の研究者による『Science Advances』誌のレビューは、FMO複合体を中心に検討したものであり、あらゆる光合成生物・あらゆる条件を網羅したわけではない。
- 高効率の謎そのものは解決していない。 光合成がなぜ常温のノイズの多い環境でこれだけの効率を実現できるのかという、もともとの問いへの答えは、今もまだ完全には出ていない。
- この記事も一つの時点のスナップショットである。 量子生物学は現在も活発に研究が進む分野であり、今後さらに解釈が更新される可能性がある。
よくある質問
今日の3行まとめ
その解釈は2017年のPNAS論文、2020年のScience Advancesのレビューで大きく揺らいでいる。
一つの画期的な発見も、再検証によって書き直されるのが科学の通常運転である。
こうした「へぇ、そうだったのか」という話は、知って終わりではもったいない。誰かに話してみることで、自分の記憶にも定着しやすくなる。雑学・トリビアのストックを増やしたい人は、英語の雑学・豆知識のコーナーも覗いてみてほしい。
参考文献
- Engel, G. S., Calhoun, T. R., Read, E. L., Ahn, T.-K., Mančal, T., Cheng, Y.-C., Blankenship, R. E., & Fleming, G. R. (2007). Evidence for wavelike energy transfer through quantum coherence in photosynthetic systems. Nature, 446(7137), 782–786. 論文を見る
- Duan, H.-G., Prokhorenko, V. I., Cogdell, R. J., Ashraf, K., Stevens, A. L., Thorwart, M., & Miller, R. J. D. (2017). Nature does not rely on long-lived electronic quantum coherence for photosynthetic energy transfer. Proceedings of the National Academy of Sciences, 114(32), 8493–8498. 論文を見る
- Cao, J., Cogdell, R. J., Coker, D. F., Duan, H.-G., Hauer, J., Kleinekathöfer, U., Jansen, T. L. C., Mančal, T., Miller, R. J. D., Ogilvie, J. P., Prokhorenko, V. I., Renger, T., Tan, H.-S., Tempelaar, R., Thorwart, M., Thyrhaug, E., Westenhoff, S., & Zigmantas, D. (2020). Quantum biology revisited. Science Advances, 6(14), eaaz4888. 論文を見る