香水売り場を通りかかった瞬間や、誰かの家に入った瞬間に、何年も忘れていた記憶が不意によみがえった経験はないでしょうか。フランスの作家マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』では、紅茶に浸したマドレーヌの香りから、主人公の少年時代の記憶がまるごと立ち上がってきます。これは文学的な誇張表現なのか、それとも科学的にも裏づけられる現象なのか。
心理学と脳科学は、この「プルースト効果」を数十年にわたって検証してきました。複数の実験が示しているのは、においで呼び起こされた記憶は写真や言葉で呼び起こされた記憶より感情的で生々しいということ、そしてなぜか幼い時期の記憶に偏って現れるということです。研究の中身を追いながら、なぜ嗅覚だけが特別なのかを見ていきましょう。
なぜ「におい」だけ特別だと言われてきたのか
「懐かしいにおいで、忘れていた昔のことを思い出した」という体験談は、世界中で語られてきました。しかし心理学の世界では長らく、これは単なる思い込みか、研究者が「フォークロア(民間伝承)」と呼ぶ域を出ない話だと見なされていました。プルーストの描写があまりに有名なため、実際以上に効果が誇張して語られているのではないか、という疑いです。
この疑問に正面から取り組んだのが、心理学者Simon ChuとJohn J. Downesです。2人は2000年に『Chemical Senses』誌で、「プルーストの現象」を厳密に検証するための方法論を整理した論文を発表しました。ここから、においが本当に特別な記憶の手がかりなのかを、実験室で確かめる研究が本格的に始まります。
実験:同じ「記憶」を、感覚だけ変えて比べる
検証には工夫が必要でした。「においで思い出した記憶」と「写真で思い出した記憶」を単純に比べても、そもそも思い出した出来事の中身が違っていたら、感情の強さの違いが感覚によるものか、出来事そのものの違いによるものか分かりません。
そこでブラウン大学の心理学者Rachel Herzは、同じ手がかりを複数の感覚形式で参加者に体験させる「反復測定パラダイム」という実験デザインを考案しました。焚き火・刈りたての芝生・ポップコーンという3つの手がかり項目を、においとして嗅がせる条件、写真として見せる条件、環境音として聞かせる条件に分け、参加者一人ひとりに複数の形式を体験してもらったうえで、そのつど呼び起こされた記憶の感情の強さや鮮明さを評価してもらう設計です。同じ人が、同じ種類の手がかりを、感覚だけ変えて経験することで、出来事の中身をそろえたまま感覚の効果だけを取り出せます。
もう一つの重要な実験が、スウェーデンの心理学者Johan WillanderとMaria Larssonが2006年に発表したものです。93名の高齢者を「言葉」「写真」「におい」のいずれか1つの手がかり条件に割り当て、その手がかりから連想する自分自身の体験(自伝的記憶)を1つ語ってもらい、その出来事がいつ頃のことだったかを答えてもらいました。手がかりの種類によって、思い出される記憶の「時期」が変わるかどうかを調べる設計です。
結果:においの記憶だけ、感情も年代もちがっていた
Herzの実験で分かったのは、同じ手がかり項目であっても、においで思い出した記憶のほうが、写真や音で思い出した記憶より有意に感情的で、鮮烈だと評価されたことです。一方で、記憶の鮮明さや具体性そのものには、感覚による差はほとんど見られませんでした。においは記憶の「量」や「正確さ」を増やすわけではなく、記憶を経験したときの「感情の強さ」だけを特別に引き上げていたということになります。
心理学者Simon Chuらが2002年に『Memory & Cognition』誌で発表した実験も、これを裏づけています。参加者はまず言葉の手がかりで記憶を語ったあと、同じ出来事について、一致するにおい・一致しない別のにおい・視覚的な手がかりのいずれかを追加で与えられました。結果、一致するにおいを追加された参加者は記憶の中身をより詳しく語れたのに対し、視覚的な手がかりや一致しないにおいは、むしろ想起の詳しさを損なう方向に働いたと報告されています。
Willander & Larssonの実験では、さらに意外な結果が出ました。言葉や写真で思い出された記憶は、11〜20歳の時期に集中していました。これは記憶研究で以前から知られる「レミニセンス・バンプ(思い出のこぶ)」と呼ばれる現象で、多くの人にとって人生の記憶が最も豊富に残っているのがこの時期であることを示しています。ところが、においで思い出された記憶だけは、10歳未満の幼少期に集中していたのです。同じ人の同じ人生を尋ねているのに、手がかりの感覚が変わるだけで、蘇る記憶の「時代」そのものがずれていました。においで思い出した記憶は、それまであまり思い出したり話したりしたことがないものである割合も高かったと報告されています。
| 比較した点 | においの記憶 | 写真・言葉の記憶 |
|---|---|---|
| 感情の強さ | 有意に高い(Herz, 2004) | 基準 |
| 鮮明さ・具体性 | 差はほとんどなし | 差はほとんどなし |
| 蘇る記憶の年代 | 10歳未満に集中 | 11〜20歳に集中 |
| 一致する追加の手がかり | 詳しさが増す(Chu & Downes, 2002) | 視覚追加は詳しさを損なう傾向 |
なぜこんなことが起きるのか
このパターンを説明する手がかりは、脳の配線そのものにあります。視覚や聴覚といったほかの感覚の情報は、脳に入るとまず視床(ししょう=感覚情報を各部位に振り分ける中継地点)を経由してから、感情や記憶に関わる部位に届きます。ところが嗅覚だけは例外です。鼻から入ったにおいの情報は視床を経由せず、嗅球(きゅうきゅう=においの信号を最初に処理する脳の部位)から、扁桃体(へんとうたい=感情、とくに快・不快や恐怖の処理に関わる部位)や海馬(かいば=記憶の形成に関わる部位)へ、ごく少ない中継点数でほぼ直結していると考えられています。
この配線の違いを裏づけるのが、研究者Artin Arshamianらが2013年に『Neuropsychologia』誌で発表したfMRI(=脳の活動部位を画像化する装置)を使った実験です。同じ記憶を、においで思い出す条件と、言葉で思い出す条件とで比較したところ、においで思い出したときのほうが、記憶に関わる側頭葉内側部(海馬の周辺領域)や、感情処理に関わる大脳辺縁系の活動が強く見られました。一方、言葉で思い出したときは、より広い範囲の前頭前野が活動していたと報告されています。脳がにおいの記憶を呼び起こすとき、感情や記憶の中枢によりダイレクトにアクセスしているらしいことが、行動データだけでなく脳の画像でも裏づけられた形です。
この話、こう使える
研究者たちが注目しているのは、この現象を意図的に活用できる可能性です。Rachel Herzは2016年の総説論文で、ポジティブな記憶と結びついたにおいには、気分を上げたり、ストレスの生理的な指標を下げたりする効果が報告されていると述べています。日常でできそうな工夫としては、次のようなものが考えられます。
- 大事な体験(旅行、結婚式、卒業、初めての海外滞在など)の場では、あえて「そこでしか使わない香り」を意識してみる。ハンドクリームや香水をその体験専用にしておくと、あとから同じ香りに触れたときに記憶が引き戻されやすくなります。
- 逆に、つらい時期にいつも使っていた香りは、思っている以上に記憶と強く結びついている可能性があります。気分を切り替えたい場面では、香りそのものを変えてみるのも一つの手です。
- 英語圏でもこの現象は"a Proustian moment"や"a madeleine moment"という言い回しで語られます。あるきっかけで忘れていた記憶が一気によみがえる瞬間を指す表現で、雑談のネタとしても使いやすいフレーズです。
注意点:この研究の限界
ここまでの内容を「においは万能の記憶装置」と受け取るのは早計です。研究にはいくつかの限界があります。
- 多くは室内実験・自己申告ベース。 参加者の評価は本人の主観的な報告に基づいており、「プルースト効果」という言葉を知っている人が、無意識に期待に沿った回答をしてしまう可能性は完全には排除できません。
- 頻度が高い現象ではない。 Willander & Larssonらの研究では、日常生活の中で実際ににおいをきっかけに記憶が蘇る頻度自体は、それほど高くないとも報告されています。「においで蘇る記憶は特別な質を持つ」ことと、「においが記憶の主な入り口である」ことは別の話です。
- 被験者の偏り。 多くの研究は欧米の成人を対象にしており、日本を含むほかの文化圏や年代でも同じ結果になるとは限りません。においの感じ方や、においに紐づく記憶の種類は、育った環境によって大きく変わります。
- 相関と因果の違い。 においが「記憶を呼び起こしやすい」ことと、においが記憶の質そのものを「正確にする」ことは別問題です。感情の強さと事実としての正確さを混同しないよう注意が必要です。
よくある質問
今日の3行まとめ
理由は、嗅覚だけが脳の感情・記憶の中枢に、ほかの感覚より近道でつながっているためだと考えられています。
ただし万能ではなく、実験室の外でどこまで再現されるかは、まだ研究が続いている途中です。
「へぇ」で終わらせたくない人は、英語の雑学・豆知識で今日覚えた"a madeleine moment"のような小ネタをストックしておくと、英会話の雑談ネタにも困りません。
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英語脳年齢テストをやってみる →参考文献
- Chu, S., & Downes, J. J. (2000). Odour-Evoked Autobiographical Memories: Psychological Investigations of Proustian Phenomena. Chemical Senses, 25(1), 111–116. 論文を見る
- Herz, R. S. (2004). A Naturalistic Analysis of Autobiographical Memories Triggered by Olfactory, Visual and Auditory Stimuli. Chemical Senses, 29(3), 217–224. 論文を見る
- Chu, S., & Downes, J. J. (2002). Proust Nose Best: Odors Are Better Cues of Autobiographical Memory. Memory & Cognition, 30(4), 511–518. 論文を見る
- Willander, J., & Larsson, M. (2006). Smell Your Way Back to Childhood: Autobiographical Odor Memory. Psychonomic Bulletin & Review, 13(2), 240–244. 論文を見る
- Arshamian, A., Iannilli, E., Gerber, J. C., Willander, J., Persson, J., Seo, H.-S., Hummel, T., & Larsson, M. (2013). The Functional Neuroanatomy of Odor Evoked Autobiographical Memories Cued by Odors and Words. Neuropsychologia, 51(1), 123–131. 論文を見る
- Bogenschütz, L., et al. (2022). Odor Associated Memories Are Not Necessarily Highly Emotional. Acta Psychologica.