真っ暗な洞窟の中を、コウモリは壁にも天井にもぶつからずに飛び回ります。超音波のエコーで前方の障害物を察知していることは有名ですが、では頭の中で「自分が今どこにいるか」をどうやって記録しているのでしょうか。
2013年に『Science』誌に発表された研究は、コウモリの脳から直接その答えを取り出しました。自由に飛び回るコウモリの脳細胞(ニューロン)を無線で記録したところ、場所を記録する「場所細胞」が、前後・左右・上下のすべてをほぼ同じ精度で記録していることが分かったのです。地面を歩くラットの場所細胞の多くが水平方向を中心に記録しているのとは対照的な結果でした。
洞窟や樹上といった立体的な空間で暮らす動物の脳は、どんな"地図"を持っているのか。3本の論文から、コウモリの脳に広がる3次元の空間地図を見ていきます。
なぜ地面を歩く動物の地図だけが調べられてきたのか
「場所細胞(place cells)」は1971年、ジョン・オキーフ(John O'Keefe)がラットの海馬(かいば=記憶や空間認知をつかさどる脳の部位)で発見しました。ラットが特定の場所に来ると決まって発火する細胞で、脳の中にある"現在地マーカー"のような存在です。この発見は2014年のノーベル生理学・医学賞の対象にもなっています。
ただし、これまでの場所細胞研究の多くは、ラットやマウスを平らな床の上で歩かせる実験でした。地面を歩く動物にとって、上下方向(高さ)の違いは生活の中でさほど重要ではありません。移動の大部分が水平方向だからです。
一方でコウモリは、洞窟の天井から木の枝まで、立体的な空間を縦横無尽に飛び回って暮らしています。場所細胞が「水平方向は得意だが、垂直方向は不得意」なまま進化してきたのなら、本気で3次元を生きるコウモリの脳では何かが違っているはずだ——研究者たちはそう考えました。
実験:自由に飛ぶコウモリの脳から神経活動を記録する
イスラエル・ワイツマン科学研究所のMichael YartsevとNachum Ulanovskyは、エジプトルーセットオオコウモリに、体重の7%ほどにあたる重さ約12gの無線式の神経記録装置を取り付けました。コードでつながず、自由に飛べる状態のまま脳の活動を記録できる仕組みです。
コウモリは、人工的に作られた飛行用の部屋の中を思うままに飛び回ります。大きな直方体の部屋と、小さな立方体の部屋の両方で実験が行われ、海馬の「CA1」という領域にある神経細胞の活動が記録されました。
合計5匹のコウモリから、質の良い神経細胞139個分のデータが得られています。
結果:90%以上の細胞が、3方向を同じ精度で記録していた
注目すべきはここからです。場所細胞55個の発火パターンを調べたところ、90%以上の細胞で、前後・左右・上下という3つの軸が、ほぼ同じ精度で符号化されていました。論文は、コウモリの海馬が3次元空間を「ほぼ等方的(isotropic=方向によって差がない)」な一定の仕組みで表現していると結論づけています。
個々の場所細胞が発火する領域(発火野)の形も確認されました。多くの細胞は1つのまとまった立体的な領域だけで発火し(約62%)、部屋が大きくなるほど複数の領域で発火する細胞の割合が増える傾向も見られました(大きな部屋では約43%)。
もう一つの発見は、ラットの場所細胞でよく見られる「シータリズム」という規則的な脳波のリズムが、コウモリの3次元場所細胞の発火にはほとんど見られなかったという点です。これより前、2007年に同じUlanovskyがCynthia Mossと『Nature Neuroscience』誌に発表した研究でも、コウモリ2匹から記録した154個の海馬の細胞で、シータリズムは連続的ではなく、間欠的にしか現れないことが報告されていました。
なぜこんな"立体の地図"が生まれるのか
なぜコウモリの脳は3次元を均等に記録できるのか。はっきりした結論はまだ出ていませんが、研究チームが注目しているのはシータリズムの違いです。
ラットの場所細胞研究では、海馬のシータリズムが、歩く・走るといった規則的な足の動きのリズムと結びついていると考えられてきました。歩行という"メトロノーム"があるからこそ、場所細胞も規則的なタイミングで発火する、というモデルです。ところが飛行には、歩行のような規則的な足のリズムがありません。リズムという"土台"が変われば、符号化の仕組みも変わってくるのではないか、という見方です。
この見方を裏付けるように、同じ研究グループは2011年に『Nature』誌で、コウモリの脳の別の領域(内側嗅内皮質)にある「格子細胞(grid cells)」という、空間を碁盤の目のように符号化する細胞についても報告しています。格子細胞は通常、シータリズムの干渉によって生まれると考えられてきましたが、コウモリでは連続的なシータリズムがない状態でも格子細胞が存在していました。ただしこの結論には、Caswell Barryらから異論(2012年、同じく『Nature』誌)も出されており、議論はまだ続いています。
たとえるなら、地面を歩く動物の脳が持っているのは、平らな紙の上に描かれた二次元の地図アプリのようなものです。対してコウモリの脳は、建物の中をぐるぐる動き回って確かめる立体モデリングソフトに近いものを持っている、というイメージです。生きる空間の形そのものが、脳が作る地図の形を決めている可能性がある——これがこの研究の面白さです。
この話、こう使える
コウモリの脳の話は、人間の日常にもいくつかの視点を示してくれます。
- 人間の空間認知は、普段の移動が水平方向中心であることから、コウモリより"水平寄り"になっている可能性があります。初めてのビルや駐車場で迷いやすいと感じるなら、「何階にいるか」「どちら側に階段があったか」を言葉にして確認する習慣をつけると、頭の中の地図をより立体的に使う助けになるかもしれません。
- ボルダリングや水泳、ダイビングなど上下方向の移動を伴う運動は、ふだん使われにくい垂直方向の空間感覚を刺激する可能性があります。ただしこれは今回の研究から導けるあくまで仮説で、人間を対象に直接検証した研究ではありません。
- 「同じ場所でも、生き方が違えば脳の地図の形も変わる」という視点は、自分の記憶や学習の仕方を見直すきっかけにもなります。脳の仕組みそのものに興味が出た方は、英語脳年齢テストで自分の脳の使い方を覗いてみるのも一興です。
注意点:この研究の限界
- 対象はエジプトルーセットオオコウモリ、5匹のみです。 コウモリの他の種や、哺乳類全体に同じ結果がそのまま当てはまるとは限りません。
- 実験室内の人工的な飛行部屋での結果です。 実際の洞窟や野外の複雑な環境でも同じパターンが見られるかどうかは、別途の検証が必要です。
- 格子細胞とシータリズムの関係については、研究者の間で意見が分かれています。 2011年の論文の結論には異論も出されており、「連続的なシータリズムがなくても格子細胞ができる」という解釈そのものに、議論の余地が残っています。
- 人間への応用はまだ仮説の段階です。 この記事の「こう使える」で挙げた内容は、研究から着想を得た生活のヒントであり、人間を対象に直接確かめられたものではありません。
よくある質問
今日の3行まとめ
一方、自由に飛ぶコウモリの場所細胞は、上下・前後・左右をほぼ同じ精度で記録する"等方的"な地図を持っていました。
生きる空間の形が、脳が作る地図の形そのものを決めているのかもしれません。
脳の仕組みにまつわる話をもっと読みたい方は、鏡に映った自分がわかる動物の話やタコの分散した知能の話も、あわせてどうぞ。
参考文献
- Yartsev, M. M., & Ulanovsky, N. (2013). Representation of Three-Dimensional Space in the Hippocampus of Flying Bats. Science, 340(6130), 367–372. 論文を見る
- Ulanovsky, N., & Moss, C. F. (2007). Hippocampal cellular and network activity in freely moving echolocating bats. Nature Neuroscience, 10(2), 224–233. 論文を見る
- Yartsev, M. M., Witter, M. P., & Ulanovsky, N. (2011). Grid cells without theta oscillations in the entorhinal cortex of bats. Nature, 479(7371), 103–107. 論文を見る
- Barry, C., et al. (2012). Grid cells and theta as oscillatory interference: electrophysiological data from freely moving rats (Brief Communications Arising). Nature, 488, E1–E2.
- Griffin, D. R. (1944). Echolocation in bats. 反響定位という現象・用語の発見史に関する基礎資料。