鏡に映っているのが「自分」だとわかる動物は、長いあいだヒトと一部の大型類人猿だけだと考えられてきました。ところが近年、体長10センチほどの小さな魚が同じテストに"合格"したと報告され、科学界で大きな議論を呼んでいます。
手がかりは「マークテスト(mark test)」と呼ばれる手法です。1970年にチンパンジーで確認されたこの現象は、その後ゾウ、カササギ、イルカへと"合格者"を広げていきました。しかし同じ種を使った再現実験で正反対の結果が出るなど、話はそう単純ではありません。
「鏡に映った自分がわかる」というシンプルな行動の裏側で、何が起きているのか。論文7本から、半世紀続く自己認知研究の攻防をたどります。
なぜ「鏡がわかるか」が重要なのか
赤ちゃんは生後1年半ごろまで、鏡に映った自分に向かって手を振ったり、後ろを覗き込んだりします。鏡の中の像を「もう一人の誰か」だと思っているからです。発達心理学では、鏡の像を自分だと認識できるようになる時期を、自己概念(self-concept=自分というものについての認識)が育つ節目のひとつとみなしてきました。
この考え方を動物に応用したのが、心理学者ゴードン・ギャラップ・ジュニアです。ギャラップは1970年、鏡の像を"自分"だと認識できるかどうかを客観的に判定する方法を考案し、米科学誌『Science』に発表しました。これが現在まで使われているマークテストの原型です。
以来50年以上、このテストは「どの動物が自己認知能力を持つのか」を調べる"ものさし"として使われてきました。ただし後述するように、この"ものさし"そのものの妥当性も、近年は問い直されています。
実験:体に印をつけて、鏡を見せる
マークテストの手順はシンプルです。
- 動物が鏡を見ても自分では直接見えない部位(額や喉など)に、無臭・無害な色のついた印をつける
- 鏡に映る自分の姿を見せる
- 印に向かって体をこすったり触れたりする「印に向けた行動(mark-directed behavior)」が出るかを観察する
- 透明な印(色がなく鏡を見ても気づけないもの)や、鏡がない状態でも同じ行動が出ないかを対照条件として確認する
ギャラップの1970年の実験では、4頭のチンパンジーに1日8時間・10日間、鏡を見せ続けました。最初チンパンジーたちは鏡の中の姿を別の個体だと思ったのか、威嚇や鳴き声といった社会的な反応を見せましたが、数日のうちにその反応は収まり、鏡を使って自分の顔や体を調べるしぐさに変わっていきました。そのうえで麻酔下で耳と眉に赤い染料で印をつけたところ、鏡を見た個体は印に触れようとする行動を見せ、鏡の経験がない対照群の個体はそうした反応を示しませんでした。
この手法はその後、他の動物にも応用されていきます。
結果:合格率は、動物によって驚くほど割れていた
ところが結果を数字で見ていくと、「合格・不合格」はそれほどくっきり分かれていないことがわかります。
| 動物 | 研究 | 結果 |
|---|---|---|
| チンパンジー | Gallup (1970) | 鏡経験のある個体で印に向けた行動を確認 |
| アジアゾウ | Plotnik, de Waal & Reiss (2006) | 3頭中1頭(Happyという個体)のみが明確に合格 |
| カササギ | Prior, Schwarz & Güntürkün (2008) | 5羽中2羽(40%)が印を取り除こうとした |
| カササギ(追試) | Soler ら (2020) | 印に向けた行動は鏡の前より対照の厚紙の前で多く、再現できず |
| ホンソメワケベラ(魚) | Kohda ら (2019) | 最初の試行で4匹中3匹(75%)、試行数を増やした結果では18匹中17匹(94%) |
特に注目を集めたのが、2019年に発表されたホンソメワケベラというサンゴ礁に暮らす小さな魚の研究です。研究チームは魚の喉に、鏡を見ないと気づけない色の印をつけ、鏡の前に置きました。すると魚は鏡を見たあとに、印のある部分を水槽の底や岩にこすりつける行動を繰り返しました。透明な印をつけた場合や、鏡がない状態では、この行動はほとんど見られませんでした。
もうひとつ興味深いのは、3頭中1頭しか合格しなかったゾウの実験です。研究チームはこれを「ゾウに自己認知能力がない証拠」とは解釈していません。マークテストで不合格でも、別の行動観察(鏡を使って自分では見えない体の部分を調べる、鏡の前で普段しないしぐさを繰り返す、など)からは自己を意識しているとみられる兆候が報告されているためです。マークテストは「十分条件」であって、不合格が「自己認知なし」を意味するとは限らない、という理解が研究者のあいだでは一般的になっています。
なぜこうなるのか
魚がマークテストに"合格"したという報告は、当初から大きな戸惑いをもって受け止められました。魚の脳はヒトの大脳新皮質のような構造を持たず、自己認知には高度な脳の構造が必要だと考えられてきたからです。
研究チームはこの疑問に答えるため、2023年に続報を発表しています。鏡を見せたあとに、印のついた自分の写真と、印のついた別の個体の写真を見せる実験です。ホンソメワケベラは自分の写真の印には反応して体をこすりつけようとした一方、別個体の写真に対しては攻撃的な反応(縄張りに侵入してきた相手だと思って威嚇する)を示しました。研究チームはこれを、魚が自分の顔の心的イメージ(メンタルイメージ)を持っている可能性を示す結果だと解釈しています。
ただし、この解釈には異論もあります。カナダの心理学者アラン・モランは、写真への反応だけから「自分の顔の心的イメージを持っている」と結論づけるのは論理の飛躍が大きいと指摘し、別の単純な説明(においや文脈の手がかりで区別している可能性など)を排除しきれていないと論じています。
たとえるなら、マークテストは「鍵穴から部屋の中をのぞく」ような調べ方です。鍵穴の形(=行動として観察できる反応)から部屋の中(=動物の内面)を推測するしかなく、見える範囲はごく限られています。同じ鍵穴からのぞいても、研究者によって「何が見えたか」の解釈が分かれるのは、ある意味で自然なことだといえます。
この話、こう使える
自己認知テストの歴史は、生き物の知能そのものだけでなく、「科学的な主張とどう向き合うか」のヒントもくれます。
注意点:この研究の限界
- 再現性に課題がある。 2020年の追試研究のタイトルが示す通り、カササギの結果は「自己認知の証拠を示さなかった」という真逆の結論になりました。研究者自身も「この結果はカササギにマークテストを合格する能力がないことを証明するものではなく、さらなる検証が必要」と慎重な立場を取っています。
- 「印に触れる」行動の解釈が一枚岩ではない。 印に触れる行動が、本当に「鏡像=自分」という理解にもとづくのか、単なる違和感への反応(かゆみのようなもの)なのかを完全に切り分けるのは難しいと指摘されています。
- 魚の写真実験への異論。 2023年の追加実験についても、心的イメージの存在を示す決定的な証拠とまでは言えないという批判が専門誌上で交わされています。
- テストの前提そのものへの疑問。 マークテストはヒトや大型類人猿の行動様式(手で触れる・毛づくろいをする)を基準に設計されており、嗅覚や触覚を主に使う動物には構造的に不利だという見方があります。
よくある質問
今日の3行まとめ
ただしカササギの追試は失敗し、魚の実験にも解釈をめぐる議論が続いています。「合格・不合格」の二分法では測りきれない知能のグラデーションがある、というのが現時点での誠実な結論です。
鏡に映った自分がわかる動物の話のように、調べるほど意外な生き物の研究は他にもたくさんあります。息抜きがてら、思わず人に話したくなる雑学もチェックしてみてください。
英語の雑学・豆知識を見てみる →参考文献
- Gallup, G. G., Jr. (1970). Chimpanzees: Self-Recognition. Science, 167(3914), 86–87. 論文を見る
- Plotnik, J. M., de Waal, F. B. M., & Reiss, D. (2006). Self-recognition in an Asian elephant. PNAS, 103(45), 17053–17057. 論文を見る
- Prior, H., Schwarz, A., & Güntürkün, O. (2008). Mirror-Induced Behavior in the Magpie (Pica pica): Evidence of Self-Recognition. PLOS Biology, 6(8), e202. 論文を見る
- Soler, M., Colmenero, J. M., Pérez-Contreras, T., & Peralta-Sánchez, J. M. (2020). Replication of the mirror mark test experiment in the magpie (Pica pica) does not provide evidence of self-recognition. Journal of Comparative Psychology. 論文を見る
- Kohda, M., Hotta, T., Takeyama, T., Awata, S., Tanaka, H., Asai, J., & Jordan, A. L. (2019). If a fish can pass the mark test, what are the implications for consciousness and self-awareness testing in animals? PLOS Biology, 17(2), e3000021. 論文を見る
- Kohda, M., et al. (2023). Cleaner fish recognize self in a mirror via self-face recognition like humans. PNAS, 120(7), e2208420120. 論文を見る
- Horowitz, A. (2017). Smelling themselves: Dogs investigate their own odours longer when modified in an "olfactory mirror" test. Behavioural Processes, 143, 17–24. 論文を見る