あなたの免疫システムの一部は、700年近く前にヨーロッパの人口の半分近くを奪った疫病が「選び残した」ものかもしれない——そう聞いたら、にわかには信じがたいのではないでしょうか。

中世ロンドンの集団埋葬地に眠っていた206人分の古代DNAを解析した研究で、黒死病(ペスト)を生き延びやすくした免疫遺伝子の変異が特定されました。そしてその同じ変異は、現代人のクローン病をはじめとする自己免疫疾患のリスクにも関わっていると報告されています。つまり、祖先が疫病を生き延びるために手に入れた"武器"には、後々まで続く代償がついていた可能性がある、ということです。論文をもとに、その中身を見ていきましょう。

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なぜ黒死病が人類史上最大級の"ふるい"だったのか

1346年から1353年にかけて、ペスト菌(Yersinia pestis)を病原体とする黒死病がアフロユーラシア大陸を襲いました。当時のヨーロッパの人口の30〜50%が命を落としたと推定される、記録に残る中でも最大級の死亡率を伴うパンデミックです。

感染症は人類の進化に強い選択圧(=生存や繁殖に有利・不利な形質をふるい分ける力)をかけてきたと考えられています。ある集団の半分近くが短期間で命を落とすという出来事は、裏を返せば「生き残りやすい体質の人の割合が、その後の世代で急激に増える」可能性を意味します。研究チームが注目したのは、まさにこの点でした。黒死病は、免疫に関わる遺伝子の"頻度"を、わずか数世代のうちに書き換えるほどの出来事だったのではないか——という問いです。

実験:206人の歯から読み取った"選択の証拠"

この問いに挑んだのが、Jennifer Klunkらが2022年に『Nature』誌に発表した研究です。研究チームは、ロンドンとデンマークという2つの地域で、黒死病の前・最中・後という3つの時期に埋葬された人々の歯から、合計206人分の古代DNAを抽出しました。歯の内部にある歯髄という組織は硬いエナメル質に守られており、数百年が経ってもDNAが比較的よく残っているためです。

抽出したDNAから、免疫に関わる遺伝子群を中心に、時期ごとにどのくらい変異の頻度が変化したかを統計的に比較しました。もし特定の変異が生存に有利(あるいは不利)だったなら、黒死病の前後でその変異を持つ人の割合が、免疫と関係のない遺伝子群に比べて大きくずれるはずだ、という考え方です。

💡 この実験デザインが面白い理由 現代人の遺伝子データから過去の出来事を「逆算」で推測するのではなく、黒死病の前・最中・後に実際に生きていた人の骨から直接DNAを読み取っている点が異色です。歴史の"証人"そのものから、自然選択がリアルタイムで進んでいた痕跡を探しているとも言えます。

結果:245個の変異、中でも際立った1つの遺伝子

解析の結果、免疫に関わる遺伝子群は、免疫と関係のない遺伝子群に比べて、時期による頻度の変化が明らかに大きいことが分かりました。ロンドンのデータだけで245個の変異が強く差を示し、そのうち4個はデンマークという独立した集団のデータでも同じ傾向が確認されました。これが「偶然のばらつき」ではなく「自然選択が働いた」証拠として最も有力視されたポイントです。

中でも際立っていたのが、ERAP2という免疫遺伝子の近くにあるrs2549794という変異でした。この変異は、ERAP2というタンパク質が「完全な長さで作られるか、途中で切れた短い形になるか」を左右します。完全な長さのERAP2を作れる型を持つ人は、ペスト菌に感染した際のサイトカイン(免疫細胞が出す伝達物質)の反応が異なり、マクロファージ(細菌を食べて排除する免疫細胞)の中でペスト菌の増殖をより強く抑えられることが実験で確かめられました。黒死病という"ふるい"を通過しやすかったのは、この型を持つ人々だった可能性が高いというわけです。論文では、この変異が受けた選択の強さ(選択係数)を0.39と推定しており、これは人のありふれた遺伝子変異としては桁外れに大きい値だと位置づけられています。

図1:同じ遺伝子変異(rs2549794)が、感染症と自己免疫疾患で逆方向に働く
約+8% 約−14% 重症肺炎(ICU入院相当) クローン病 +20% 0% −20%
T型を持つ人は現代のGWASデータで、重症肺炎のオッズ比1.08(約8%増)・クローン病のオッズ比0.86(約14%減)と、感染症と自己免疫疾患で正反対の方向に働くことが報告されています。
出典:Hamilton et al. (2022/2023) のオッズ比をもとに作図(オッズ比を概算のパーセント変化として図示)

この"逆方向"のデータを示したのが、Fergus Hamiltonらが2022〜2023年にかけて発表した追跡研究です。英国バイオバンクなど大規模な現代人のゲノムデータを使い、同じrs2549794という変異と病気との関係を調べたところ、ある型(T型)を持つ人は肺炎のリスクがわずかに高く(オッズ比1.03)、集中治療を要するほどの重症肺炎ではさらに高く(オッズ比1.08)なる一方で、クローン病のリスクはむしろ低い(オッズ比0.86)という、正反対の関連が見つかったのです。

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なぜこうなるのか

一見ちぐはぐに見えるこの現象は、免疫学では「バランス選択」「拮抗的多面発現」と呼ばれる考え方で説明されています。免疫というシステムは、外からの病原体を攻撃する一方で、自分自身の細胞を誤って攻撃しないよう、常にアクセルとブレーキのバランスを取っています。ERAP2が完全な長さで作られる型は、このアクセルを強めに踏む設定に近いと考えられます。

アクセルを強く踏めば、ペスト菌のような侵入者に対してはより強力に反応でき、生存率が上がります。しかし同じ"強めの反応"は、平時には自分の腸の組織を誤って攻撃してしまう方向にも働きやすく、クローン病のような自己免疫疾患のリスクを押し上げる——という構図です。たとえるなら、警備会社を"警戒レベル最大"の設定にするようなものです。泥棒(病原体)はほぼ確実に撃退できますが、誤報(自己免疫反応)で家族(自分の細胞)にまで警報が鳴ってしまうことが増える、というイメージに近いでしょう。

図2:黒死病が残した"遺伝的な遺産"の二面性
1346年 黒死病 免疫遺伝子 ERAP2が変化 700年後 の現代 感染症への 抵抗力は◎ 自己免疫疾患の リスクは△
黒死病を生き延びるうえで有利だった免疫の"強い反応"は、現代の平時にはクローン病などのリスクという形で現れうる。これがバランス選択・拮抗的多面発現と呼ばれる考え方です。
Klunk et al. (2022)・Hamilton et al. (2022/2023) の知見をもとにしたイメージ図(実測値ではありません)

この話、こう使える

この研究から持ち帰れるのは、特定の食事法や生活習慣のテクニックではありません。むしろ、「自己免疫疾患や原因のはっきりしない体質は、自分の努力不足や"悪い遺伝子"のせいだと単純に片づけられるものではない」という視点です。

私たちの免疫システムは、過去数百〜数千年のあいだに祖先が生き延びてきた感染症との"取引の記録"でもあります。ペスト・天然痘・結核……それぞれの疫病が、そのつど免疫遺伝子の頻度に爪痕を残してきました。現代で増えている自己免疫疾患やアレルギーの一部は、かつて感染症から身を守るために築かれた"強すぎる防御反応"が、衛生環境の整った現代では行き場を失い、自分自身に向かっているという仮説でも説明されます(いわゆる「衛生仮説」とも関係が深い領域です)。体質の謎に直面したとき、「今の自分」だけでなく「何百年もの進化の積み重ね」という時間軸で見てみると、受け止め方が少し変わってくるかもしれません。

注意点:この研究の限界

この話を"確定した事実"として鵜呑みにするのは早計です。正直に限界を書いておきます。

⚠️ 実は専門家の間でも論争の最中 Klunkらの結論に対し、Chengら(2023〜2024年、Nature誌)は統計手法そのものに技術的な誤りがあると指摘しました。適切なランダム化検定を行うと、免疫遺伝子に見られた"変化の大きさ"が統計的に有意ではなくなり、報告された4つの変異も本来のフィルタリング基準を通過していなかったと主張しています。これに対しVilgalysら(Klunkの研究チーム)は、推定方法を最尤法に切り替え、既知の変異のみに絞り込むなど手法を調整したうえで、rs2549794は依然として最有力候補として残ると再反論しました。免疫遺伝子が黒死病で何らかの選択圧を受けたこと自体は多くの研究者が支持していますが、「どの遺伝子が」「どれだけ強く」選ばれたのかという具体的な数値は、現在進行形で検証され続けている段階です。

よくある質問

なぜ600年以上前のペスト犠牲者の骨からDNAが取れるのですか?
歯の内部にある歯髄(しずい)という組織は、硬いエナメル質に守られているためDNAが分解されにくいとされています。Klunkらの研究では、ロンドンの集団埋葬地などに眠っていた人々の歯から、黒死病の「前・最中・後」という3つの時期にまたがる206人分の古代DNAを抽出し、免疫関連の遺伝子がどう変化したかを比較しました。
黒死病を生き延びやすくした遺伝子変異は、今の自分にもあるのですか?
rs2549794と呼ばれるこの変異は、現在の集団にもごく一般的に存在するありふれた一塩基多型(SNP)です。特別な人だけが持つものではありません。ただし、どちらの型を自分が持っているかを知るには専門的な遺伝子検査が必要で、この記事は特定の病気の診断や検査を勧めるものではありません。心配な症状がある場合は医療機関にご相談ください。
この研究は本当に正しいと言い切れるのですか?
実は専門家の間でも議論が続いています。Chengらは2023〜2024年に、Klunkらの統計手法には技術的な誤りがあり、適切な補正を行うと「選択が起きた」という証拠は統計的に有意ではなくなると反論しました。これに対しVilgalysらは、推定方法を変えても同じ変異(rs2549794)が最有力候補として残ると再反論しています。免疫遺伝子が黒死病で何らかの選択を受けたこと自体は支持する声が多いものの、「具体的にどの遺伝子が、どれだけ強く選ばれたか」は、まだ決着していない研究の最前線です。

今日の3行まとめ

📌 これだけ持ち帰ってください 黒死病を生き延びやすくした免疫遺伝子ERAP2の変異が、中世ロンドンの古代DNAから特定されました。
その同じ変異は現代人の自己免疫疾患のリスクとも関わっており、感染症への抵抗力と自己免疫のリスクは表裏一体と考えられています。
ただし統計的な解釈をめぐって専門家の論争は今も続いており、確定した結論ではありません。

進化と現代人の体質のつながりをもっと知りたい人は、ネアンデルタール人のDNAと新型コロナ重症化の関係もあわせてどうぞ。異なる"遺伝的な遺産"が現代の病気と結びついている、似た構造の話です。

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参考文献