愛犬が、こちらの機嫌をすでに察していたかのように尻尾を下げてくる。あるいは、ただの世間話をしているだけなのに、声のトーンが少し変わっただけで駆け寄ってくる。「気のせいだろう」と思っていたその感覚は、実は複数の実験で確かめられてきた現象かもしれません。

写真の一部だけを見せられても、犬は人の怒った顔と笑った顔を70〜80%程度の精度で区別することが報告されています。しかもそれだけではありません。表情の写真と声を同時に見聞きさせた実験では、犬は表情と声の感情が一致している組み合わせのほうを長く見つめました。目と耳、別々の感覚から得た情報を頭の中で結びつけて「同じ感情かどうか」を判断している——これは、それまで人間以外の動物では確認されていなかった能力だとされています。

今回は、この分野で代表的な3本の論文をもとに、犬がどのように人の感情を読み取っているのかを見ていきます。

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なぜ犬は人の感情に敏感なのか

犬はおよそ1万5000〜3万年前とされる長い年月をかけて、オオカミから分岐し人と暮らすようになってきた動物です。この過程で、人の指さしや視線といった「人間が読んでほしいと思って出しているサイン」を読み取る力を独自に発達させてきたと考えられています。実際、こうした人由来の合図を読む能力については、人と血縁の近いチンパンジーよりも犬のほうが得意な場面があることが繰り返し報告されてきました。

表情や声のトーンといった感情のサインも、その延長線上にあるのではないか——というのが、今回取り上げる一連の研究の出発点です。ただし「愛犬は自分の気持ちを分かってくれている」という感覚と、「犬が表情や声から感情の情報を区別できる」という科学的な主張は、似ているようで別物です。研究者たちは、この2つを混同しないよう、犬に本当に感情の弁別ができるのかを、条件を絞り込んだ実験で確かめてきました。

実験1:写真の"半分"だけでも表情を見分けられるか

オーストリアのウィーン獣医大学のCorsin A. Müllerらは2015年、『Current Biology』誌に、犬20匹を対象にした実験を発表しました。

犬たちはまず、同一人物の「怒った顔」と「笑った顔」の写真15組を使って、どちらか一方を選ぶと餌がもらえる訓練を受けます。ここに巧妙な仕掛けがありました。犬の半数には顔写真の上半分だけを、残り半数には顔写真の下半分だけを見せて訓練したのです。歯が見えているかどうかといった単純な手がかりだけで解けないようにするための工夫でした。

訓練後、犬たちは4種類の未見のテスト(初めて見る人物の写真、訓練時とは逆側の半分の写真など)を受けました。

結果:偶然の2倍近い精度で"怒り"と"喜び"を見分けた

結果、犬たちは4種類のテストすべてで、偶然のレベル(2択なので50%)を明らかに上回る成績を示しました。報道されている数値では、正答率はおおよそ70%から80%の範囲だったとされています。顔の上半分しか見たことのなかった犬が、下半分だけの初見の写真でも感情を見分けられたということは、単に「特定の1枚の見た目を暗記した」のではなく、怒りや喜びという感情そのものを手がかりとして使えていたことを示しています。

図1:犬による人の表情の識別精度(偶然のレベルとの比較)
50% 70〜80% 偶然のレベル 五分五分で選んだ場合 犬の正答率 怒った顔 vs 笑った顔 100% 75% 50% 25% 0%
写真の上半分・下半分だけを見せられた犬でも、初めて見る人物の表情を偶然を大きく上回る精度で見分けた。
出典:Müller et al. (2015)で報告された正答率の範囲をもとに作図
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実験2:表情と"声"を組み合わせても分かるのか

表情だけでなく、声のトーンまで一致させて評価できるのか。イギリス・リンカーン大学とブラジル・サンパウロ大学のNatalia Albuquerqueらは2016年、『Biology Letters』誌にさらに踏み込んだ実験を発表しました。

用いられたのは「クロスモーダル選好注視法」と呼ばれる手法です。犬の目の前に、感情の異なる2枚の顔写真(たとえば「笑顔/怒った顔」)を左右に並べて提示しながら、同時に片方の感情と一致する声(うれしそうな声、あるいは怒った声)をスピーカーから流します。犬がどちらの写真をより長く見つめるかを記録するというシンプルな仕組みですが、ここから分かることは小さくありません。

結果、犬は流れている声の感情と一致する表情の写真を、有意に長く見つめました。これは人の顔だけでなく、犬同士の顔と鳴き声の組み合わせでも同様に確認されています。研究チームは、犬が視覚(表情)と聴覚(声)という異なる感覚のチャンネルから得た情報を、頭の中で「同じ感情のカテゴリー」として統合していることを示す結果だと結論づけました。

💡 なぜこの結果が重要とされているのか 「怖い声だから逃げる」のような、ひとつの刺激に対する単純な反射であれば、視覚と聴覚を組み合わせる必要はありません。犬が見た目の違う2つの情報を「感情」という抽象的な単位でまとめて処理していたという点が、この実験の値打ちだとされています。

なぜこうしたことが起きるのか

メカニズムの全容はまだ解明されていませんが、いくつかの手がかりがあります。ひとつは、犬の脳における左右差です。Siniscalchiらの研究では、人の怒り・恐怖・喜びの表情を見せられた犬に、頭を左に向ける(右脳が優位に働く)傾向が見られました。人間を含む多くの哺乳類で、感情の処理には右脳が強く関わるとされており、犬の脳にも同じような役割分担がある可能性が示唆されています。

もうひとつは、視線の向け方そのものです。Kisらの眼球運動を追跡した研究では、犬は表情の種類にかかわらず、人の顔の中でも目のあたりを最も長く見る傾向が確認されました。人が会話の相手の目を見て感情を読み取ろうとするのと同じように、犬もまた「目」を情報の集まる場所として重視しているようです。

たとえるなら、犬は人間の表情を「単語」として一語一語覚えているのではなく、目・口元・声のトーンといった複数の"部品"を組み合わせて、その場で感情という"意味"を組み立てていると考えるとイメージしやすいかもしれません。

図2:表情(視覚)と声(聴覚)が、犬の中でどう結びつくか
表情 (視覚情報) 鳴き声・声のトーン (聴覚情報) 犬の脳内での統合 「同じ感情か」を照合 一致 → 長く注視 同じ感情だと判断 不一致 → 短く注視 感情がズレていると判断
視覚(表情)と聴覚(声)、別々に入ってきた情報が「同じ感情かどうか」で照合される様子のイメージ。実測値のグラフではない。
Albuquerque et al. (2016)の実験結果の解釈をもとにしたイメージ図

研究を比べてみる

研究対象手法分かったこと
Nagasawa et al. (2011)犬9匹(うち5匹が本試験へ)飼い主・初対面の人の笑顔/無表情の写真を選ばせる飼い主だけでなく初対面でも同性の相手なら区別。異性の初対面では精度が低下
Müller et al. (2015)犬20匹怒り/笑顔の写真の上半分・下半分を見せて選ばせる初見の写真でも70〜80%程度の精度で区別
Albuquerque et al. (2016)犬(選好注視法)表情の写真+鳴き声・声を同時提示表情と声の感情が一致する組み合わせをより長く注視

3本を並べると、犬の感情理解の研究が「見た目だけで区別できるか」から「見た目と音を組み合わせて統合できるか」へと、段階を踏んで確かめられてきたことが分かります。

この話、こう使える

この一連の研究が示しているのは、犬が言葉そのものより、表情や声のトーンといった非言語的な手がかりを重視しているということです。飼い主として意識できることはいくつかあります。

興味深いのは、この「言葉より声のトーンや表情が伝わる」という構図が、人間同士のコミュニケーション、とりわけ外国語でのやりとりにも通じる点です。単語や文法が完璧でなくても、声の抑揚や表情が伴っていれば意図は伝わりやすくなります。声のトーンや発音のリズムを整える練習に関心のある人は、発音矯正・7つの音の記事もあわせてどうぞ。

注意点:この研究の限界

面白い結果である一方、読み方には注意が必要です。

⚠️ 「感情を感じている」ことまでは証明されていない これらの実験が示したのは、犬が表情や声から感情に関する情報を区別・統合できるということです。犬自身が人間と同じような主観的な感情体験を持って「共感」しているかどうかは、これらの実験だけでは判断できません。混同しないよう注意が必要です。

とはいえ、飼い主のいない「村の犬」でも同様の傾向が報告されているLazzaroniらの研究(2023年)などを踏まえると、この能力が特定の犬種や育て方に限られたものではなく、犬という種にある程度共通する特徴である可能性は高いと言えそうです。

よくある質問

犬は人間の「表情の種類」までちゃんと見分けられるの?
Müllerら(2015)の実験では、怒った顔と笑った顔という2択の識別課題で、犬は写真の上半分だけ・下半分だけを見せられても偶然(50%)を上回る70〜80%程度の正答率を示しました。ただしこの実験で確かめられたのは「怒り」と「喜び」という2つの感情の区別であり、悲しみや驚きなど、より細かい感情のカテゴリーまで見分けられるかは、この実験だけでは分かりません。
どんな犬にも同じ能力が備わっているの?
Barberら(2016)の研究では、家庭で暮らすペット犬と施設で暮らす犬とで、人の顔を見るときの目の動きに違いが見られ、人との接触経験の量が影響する可能性が指摘されています。一方でLazzaroniら(2023)は、飼い主のいない「村の犬」でも、怒った表情から目をそらす頻度が高くなるなど、ペット犬と同様に人の表情を区別する様子を報告しています。犬という種に共通する土台のうえに、個体ごとの経験が上乗せされている、という理解が近そうです。
見つめられると「感情が伝わっている」気がするのは思い込み?
Albuquerqueら(2016)の実験では、犬は顔の写真と鳴き声・声の「感情の強さ」が一致している組み合わせを、一致していない組み合わせより長く見つめました。表情という視覚情報と声という聴覚情報を、犬が頭の中で結びつけていることを示す結果です。ただしこれは犬が人間と同じように感情を「感じている」ことまで証明するものではなく、感情に関する情報を区別・統合できることを示した実験である点には注意が必要です。

今日の3行まとめ

📌 これだけ持ち帰ってください 犬は写真の一部だけでも、人の怒った顔と笑った顔を70〜80%程度の精度で見分けます。
さらに、表情の写真と声を同時に見聞きさせると、感情が一致する組み合わせをより長く見つめることが確認されています。
ただし「感情を感じている」ことの証明ではなく、あくまで感情に関する情報を区別・統合できることを示した結果です。

動物の意外な知能に興味が湧いた人は、カラスは針金を道具に変えていた「鳥頭」は科学的に間違っていたもあわせてどうぞ。

🗣 "声のトーン"で通じるのは、人間の会話でも同じ

犬が言葉ではなく声のトーンや表情から感情を読み取るように、英会話でも文法や単語より先に、声の抑揚やリズムが相手に伝わることがあります。発音・イントネーションを見直したい人は、こちらもどうぞ。

発音矯正・7つの音を見てみる →

参考文献