ペンを1本、歯だけで挟んで持ってみてください。唇には触れさせず、前歯でしっかり固定する――それだけで、口元は自然と笑った形になります。この奇妙な指示、実は半世紀近く心理学の教科書に載り続けてきた、ある有名な実験のからくりです。

1988年に発表されたその実験では、ペンを歯で挟んだ参加者の方が、同じ漫画を「面白い」と評価しました。「表情を作ると、その表情にふさわしい感情が本当に生まれる」という表情フィードバック仮説を示す、鮮やかな証拠として広く引用されてきた結果です。

ところが2016年、17の研究室がまったく同じ手順で追試を行ったところ、その差はほとんど消えてしまいました。何が起きたのか、そして「表情が感情を作る」という説自体はどうなったのか。3本の論文から見ていきましょう。

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なぜ「表情を作ると、感情も作られる」と考えられてきたのか

私たちは普通、「楽しいから笑う」「悲しいから泣く」のように、感情が先にあって、表情はその結果だと考えています。ところが19世紀末、心理学者のウィリアム・ジェームズらは、この順番が逆になる場合もあると提案しました。表情や身体の反応が先に起こり、それを脳が感じ取ることで、感情そのものが形づくられるという考え方です。

これが「表情フィードバック仮説」と呼ばれる発想です。笑顔を作ると、その表情を作っている顔の筋肉から脳へ信号が送られ、脳がそれを「楽しい気分のしるし」として読み取り、実際に気分が上向く――という、体から心への逆方向の働きかけです。直感には反しますが、検証できそうな仮説でもありました。問題は、「笑ってください」と頼むと、参加者自身が「今は楽しい気分になるべきだ」と意識してしまい、本当に表情だけの効果なのか分からなくなってしまう点です。

実験:ペンを「歯」で挟むか、「唇」で挟むか

この問題を巧みに回避したのが、Fritz Strack、Leonard L. Martin、Sabine Stepperが1988年に『Journal of Personality and Social Psychology』誌で発表した実験でした。

参加者に伝えられた表向きの目的は、「普段使わない身体の部位でも、ものごとがうまくできるかを調べる実験」というものでした。実際の指示は、ペンを使って次のいずれかの持ち方をすることです。

参加者は「笑って」とも「むくれて」とも一度も言われません。ペンの持ち方という指示だけで、結果的に笑顔に近い表情とむくれ顔に近い表情のどちらかを、無意識に作らされる仕組みです。そのままペンを挟んだ状態で、複数の漫画を見せられ、それぞれの面白さを0(まったく面白くない)から9(非常に面白い)までの10段階で評価しました。

💡 この実験デザインが面白い理由 参加者には「表情」も「感情」も一度も指示されていません。ペンの持ち方という、表情とは無関係に見える指示だけで、結果的に特定の表情を作らせているのがポイントです。これにより「表情を作ったから楽しくなったのか、それとも『楽しくなるべきだ』と意識したから楽しくなったのか」という、交絡を最小限に抑えています。

結果:確かに"歯"の方が面白く感じていた――はずだった

原著の報告によれば、結果は仮説のとおりでした。歯でペンを挟んだグループの漫画の面白さ評価は平均5.14、唇でペンを挟んだグループは平均4.32。10段階評価で0.82点の差がつき、統計的に意味のある差として報告されました。表情だけで、同じ漫画の面白さの感じ方が変わってしまったのです。

この結果は長く「表情フィードバック仮説」を支える代表的な証拠として扱われ、2016年の時点でGoogle Scholar上で1,370回以上引用されるほど広まり、多くの入門心理学の教科書でも紹介されてきました。

ところが2016年、Eric-Jan Wagenmakersらの研究チームが『Perspectives on Psychological Science』誌で、この実験だけを対象にした大規模な追試(Registered Replication Report=事前登録された追試研究)を発表します。17の独立した研究室が、あらかじめ統一された同一の手順に従って追試を実施。参加者は合計で約1,900人、各研究室の人数は87人から139人にまたがりました。

結果を統合したところ、歯条件と唇条件の面白さ評価の差は、わずか0.03点。95%信頼区間は-0.11から0.16で、ゼロを挟み込んでいました。1988年の実験で見られた0.82点の差は、どこにも見当たらなかったのです。

研究規模歯条件と唇条件の差
Strack, Martin, & Stepper (1988)大学生を対象にした単一の実験0.82点(統計的に有意)
Wagenmakers et al. (2016) 追試統合17研究室・約1,900名0.03点(95%CI -0.11〜0.16)
図1:歯条件と唇条件の面白さ評価の差――原著実験と17研究室の追試統合の比較
0.82点 0.03点 1988年 原著実験 歯条件 vs 唇条件 2016年 17研究室の統合 95%CI -0.11〜0.16 1.0点 0.5点 0点
0〜9点の面白さ評価のうち、歯条件が唇条件より何点高かったかを示している。17研究室の統合では、差はほぼゼロまで縮んだ。
出典:Strack, Martin, & Stepper (1988)、Wagenmakers et al. (2016) の報告値をもとに作図
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なぜ差が消えたのか、そして理論自体は否定されたのか

表情フィードバック仮説が想定するメカニズムそのものは、シンプルです。頰骨筋(笑顔を作る筋肉)が動くと、その筋肉の状態を伝える信号が脳に届き、脳はそれを「自分は今、楽しい表情をしている」というヒントとして使います。そのヒントが、実際に感じる楽しさを少しだけ上乗せする――という一方向の流れです。

図2:表情フィードバック仮説が想定する、顔の筋肉から感情までの経路
❶ ペンを歯で挟む(頰骨筋が笑顔の形に動く) 本人は「笑って」とは一度も指示されていない ❷ 筋肉の状態を伝える信号が脳に届く (表情フィードバック) ❸ 脳が「楽しい表情のサイン」として読み取る → 実際の楽しさがわずかに上乗せされる(と想定されている)
理論上の流れはシンプルだが、❸で上乗せされる量がどれだけ大きいかは、研究によって大きく違う結果になっている。
表情フィードバック仮説の説明として提案されている考え方をもとにしたイメージ図(実測値ではありません)

では、なぜ2016年の追試では、この上乗せがほとんど検出されなかったのでしょうか。いくつかの説明が議論されています。

原著者のStrack自身は、追試チームが参加者の様子をカメラで撮影し、ペンの持ち方が正しいかどうかを記録していた点を問題視しています。本来は「意識しないうちに起こる」はずの効果なのに、カメラで見られているという意識が、参加者を普段以上に自分の表情や振る舞いに自覚的にさせてしまい、無意識の効果を妨げたのではないか、という指摘です。一方で、1988年の原著実験は比較的小規模な単一の実験であり、偶然大きく出てしまった効果を、たまたま最初に捕まえてしまった可能性も、複数の研究者から指摘されています。心理学の実験結果が、後年の大規模な追試で縮んでしまう現象は「再現性問題」として知られており、この実験はその代表例のひとつに数えられています。

ただし、話はここで終わりません。2019年、Nicholas A. Coles、Jeff T. Larsen、Heather C. Lenchの研究チームが『Psychological Bulletin』誌で、表情フィードバックに関する138件の研究・286個の効果量を統合した大規模なメタ分析(=複数の研究結果を統計的にまとめる手法)を発表しました。そこでは、表情が感情の感じ方に与える影響は、全体としては統計的に有意だが、効果の大きさはごく小さいとまとめられています。研究間のばらつきも大きく、どんな状況で効果が出やすいかは、まだ整理の途中だとされています。

🧠 ざっくり言うと 「ペンを使った1988年の実験が示した、はっきりした0.82点の差」はそのままの形では再現できませんでした。しかし「表情が感情にまったく影響しない」ともいえません。実際にあるのは、ごく小さく、状況によってブレのある効果というのが、現在の穏当な理解です。

この話、こう使える

「作り笑いで人生が変わる」という話が聞こえてきたら、この実験の経緯を思い出す価値があります。

姿勢と心のつながりについては背筋を伸ばすと気分が崩れにくくなるという研究でも紹介しています。同じ「体が心に影響する」という主張が再現性の壁にぶつかった事例はパワーポーズの追試研究で詳しく解説していますので、あわせてどうぞ。

注意点:この研究の限界

⚠️ 「追試で消えた」=「理論が完全に誤り」ではない 2016年の追試で見つからなかったのは、1988年の実験と同じ大きさの効果です。2019年のメタ分析が示すとおり、表情フィードバック自体の効果がまったくのゼロだと確定したわけではありません。「驚くほど大きな効果は誇張だった」と「理論の土台そのものが完全に崩れた」は、別の話として分けて理解する必要があります。

よくある質問

「作り笑い」をすれば本当に楽しい気分になれますか?
答えは「ごく小さな影響はあるかもしれないが、魔法のような効果は期待できない」です。Strack, Martin, Stepper(1988)の最初の実験では、歯でペンを挟んだグループの方が漫画を面白く評価しましたが、2016年に17の研究室がそのまま追試したところ、差はほぼ消えました(0.82点→0.03点)。一方、2019年に138件の関連研究を統合したメタ分析では、表情が感情に与える影響は全体として統計的に有意ではあるものの、効果の大きさはごく小さいとまとめられています。気分が多少動く可能性はあっても、作り笑いだけで気分を一変させられるわけではありません。
なぜ最初の実験と追試で、こんなに結果が変わったのですか?
単純な結論はまだ出ていません。追試チームは17の研究室で同じ手順を踏んだ上で統合した結果、統計的に意味のある差を見いだせなかったと報告しています。一方で原著者のStrackは、追試チームが参加者をカメラで撮影して手の位置を記録した点が、本来は無意識に起こるはずの効果を妨げた可能性があると指摘しています。小規模な実験で偶然大きく出た効果だった可能性と、手順の細かな違いが影響した可能性のどちらも議論されており、心理学全体で起きている「再現性問題」の代表例として扱われています。
表情フィードバック仮説そのものは、もう否定されたのですか?
いいえ、完全に否定されたとは言えません。Coles, Larsen, Lench(2019)が138件の研究・286個の効果量を統合したメタ分析では、表情が感情の感じ方に与える影響は全体として統計的に有意だったと報告されています。ただし効果の大きさはごく小さく、研究間のばらつきも大きいとされています。つまり「ペンを使った1988年の実験が示した効果の大きさ」はそのままには再現できなかったものの、「表情が感情にまったく関係しない」というわけでもない、というのが現在の理解です。

今日の3行まとめ

📌 これだけ持ち帰ってください ペンを歯で挟んだ参加者の方が漫画を面白がった――という1988年の有名な実験は、2016年に17の研究室が追試すると、差がほぼ消えました。
それでも「表情が感情にまったく関係ない」とまでは言えず、2019年のメタ分析では「ごく小さいが本物の効果」が報告されています。
「体が心に影響する」という魅力的な話ほど、1つの実験ではなく、追試やメタ分析まで確認する習慣を持ちましょう。

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