「年収がいくらあれば幸せになれるか」という問いに、2010年、ノーベル経済学賞を受賞した心理学者ダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman)は一つの数字で答えました。年収7万5000ドル。そこを超えても、日々の幸福感はそれ以上伸びない、という結論です。世界中のメディアがこの数字を引用し、「お金で買える幸せには上限がある」という話は一種の常識になりました。
ところが2021年、まったく別の研究者が同じ問いに挑み、正反対の結果を発表します。そして2023年、この二人は"敵対的共同研究"という異例の手法で手を組み、自らのデータを持ち寄って対決しました。決着をつけたのは、当のカーネマン自身です。しかもこの論文は、2024年に世を去った彼にとって、最後の発表論文のひとつになりました。
13年越しの論争がどう決着したのか。3本の論文から、お金と幸せの本当の関係をたどります。
なぜ「頭打ち」という結論が生まれたのか
話は2010年にさかのぼります。カーネマンは経済学者アンガス・ディートン(Angus Deaton、こちらもノーベル経済学賞受賞者)とともに、Gallup-Healthways社が実施した米国民の日次調査を分析しました。集めた回答は45万件超。この調査では、回答者に「昨日、喜びを感じたか」「昨日、ストレスを感じたか」のような設問への回答から算出する感情的幸福感(emotional well-being=日々の気分の良し悪し)と、「自分の人生を0点から10点で採点すると?」という人生評価(life evaluation)の2つを別々に測っていました。
結果は明快でした。人生評価は年収が上がるほど際限なく上がり続けます。一方の感情的幸福感は、年収の対数(log)とともに上昇するものの、年収およそ7万5000ドルを境に、それ以上伸びなくなるという頭打ちのパターンが見えたのです。カーネマンらは、「高い収入は人生の満足感は買えるが、日々の幸福感までは買えない」という趣旨でこの論文を締めくくりました。
この「7万5000ドルの壁」は瞬く間に有名になり、行動経済学の入門書や講演で繰り返し引用される定番のデータになっていきました。
実験:同じ問いに、別の道具で挑んだ研究者
2021年、状況が動きます。心理学者マシュー・キリングスワース(Matthew Killingsworth)が、まったく異なる手法でこの問いに再挑戦したのです。
Gallup-Healthways社の調査は、あくまで「昨日」を振り返って答える回顧的な調査でした。人は過去の感情を正確には思い出せないという批判が以前からありました。そこでキリングスワースが使ったのが、自ら開発したスマートフォンアプリ「Track Your Happiness」による経験サンプリング法(experience sampling method)です。日中ランダムなタイミングで通知が届き、その瞬間に「今、どう感じているか」を"とても悪い"から"とても良い"までの尺度でその場で回答してもらう仕組みでした。
就労している米国成人3万3391人から集めた回答は、実に172万5994件。過去を思い出す必要がなく、そのときの感情をそのまま記録できる分、精度の高いデータになると期待されました。
結果:頭打ちは、消えていた
キリングスワースが172万件のデータを分析した結果は、2010年の結論とは正反対でした。感情的幸福感も人生評価も、年収7万5000ドルを超えても頭打ちにならず、対数収入とともに上がり続けていたのです。しかも高所得層でも低所得層と同じくらいの傾きで上昇が続いていました。「頭打ち説」の根拠となったデータの規模を、桁で上回る調査が、真逆の結論を出したことになります。
ここで話は終わりません。2010年の結果を「間違いだった」と片づけるのは早計だと考えたカーネマン自身が、キリングスワースに連絡を取ったのです。二人が選んだのは、敵対的共同研究(adversarial collaboration)という珍しい手法でした。対立する主張を持つ研究者同士が、中立な第三者(仲裁役)を立てて、同じデータを一緒に分析し直すという方法です。実はこの手法自体、カーネマンが20年以上前、別の論争(頻度形式と結合効果をめぐるHertwigとの対立)で編み出したものでした。今回、彼はその手法を使って、自分自身の代表作のひとつと向き合うことになります。仲裁役には、心理学者バーバラ・メラーズ(Barbara Mellers)が入りました。
なぜ二人とも「部分的に正しかった」のか
2023年、キリングスワース・カーネマン・メラーズの3名の連名で発表された論文が出した答えは、両者の顔を立てるような玉虫色の結論ではなく、明確な発見でした。キリングスワースの172万件のデータを回答者の幸福度別にグループ分けして再分析したところ、「頭打ちパターン」は確かに存在していたのです。ただし、それが起きていたのは、もっとも不幸せな下位およそ20%の人たちに限られていました。
この不幸せな2割のグループでは、年収がおよそ10万ドル(2010年当時の7万5000ドルを物価上昇分だけ調整した水準)を超えたあたりで、幸福感の上昇が止まっていました。一方、残りおよそ8割の人たちでは年収とともに幸福感が着実に上がり続け、もっとも幸せなグループに限っては、むしろ収入が上がるほど幸福感の伸びが加速するという結果まで出ています。
| 発表年 | 研究(著者) | データ | 結論 |
|---|---|---|---|
| 2010年 | Kahneman & Deaton | Gallup日次調査 45万件超 | 年収7万5000ドルで幸福感は頭打ち |
| 2021年 | Killingsworth | アプリの経験サンプリング 172万件超 | 頭打ちなし、幸福感は上がり続ける |
| 2023年 | Killingsworth・Kahneman・Mellers | 両者のデータを再分析 | 不幸な下位2割だけ頭打ち、残り8割は上昇継続、最幸福層は加速 |
つまり2010年の研究も2021年の研究も、データの取り方自体は間違っていませんでした。見ていた"平均"の中に、性質の異なる複数のグループが混ざっていたことに、どちらも気づいていなかったのです。
なぜ「頭打ち」は不幸な人にだけ起きるのか
2023年の論文がもう一つ突き止めたのが、2010年の調査で頭打ちに見えた理由です。Gallup-Healthways社の調査は、「昨日、喜びを感じたか」のような大まかな設問から幸福感を算出していました。これだと、すでに毎日のように「幸せ」と答えている高所得層のなかで、"かなり幸せ"と"この上なく幸せ"の違いを区別できません。統計でいう天井効果(ceiling effect)、つまり物差しの上のほうの目盛りが詰まってしまっている状態です。
論文は、「幸福(happiness)」という前向きな尺度ではなく、「不幸(unhappiness/ill-being)」という尺度で測っていれば、2010年の時点でも違う結論が出ていたかもしれない、と指摘しています。人の"つらさ"の度合いには、"喜び"の度合いよりも細かい違いが表れやすいということです。
もう一つの手がかりが、不幸せな人たちの内訳です。深刻な苦しみ(重い病気、離婚、慢性的な孤独など)を抱えている人は、年収が上がっても、その苦しみそのものは簡単には消えません。お金には日々の細かなストレスを和らげる力があっても、人生を揺るがすような苦難を帳消しにする力までは持たない——このグループでだけ頭打ちが起きていたのは、そのためではないかと論文では議論されています。
この話、こう使える
この論争から持ち帰れるのは、「お金で幸せは買えない」でも「お金があれば幸せ」でもない、もう少し実用的な教訓です。
注意点:この研究の限界
- 調査対象は米国の成人に限られる。 物価や社会保障の水準が異なる国では、同じ金額が同じ意味を持つとは限りません。
- アプリ利用者には偏りがある可能性がある。 Killingsworth(2021)のデータは、スマートフォンアプリを自発的にダウンロードした人からの回答であり、米国民全体をそのまま代表しているとは言い切れません。
- 論争は完全には終わっていない。 2023年の再分析以降も、異なるデータや前提を使い、頭打ちが起きる水準を年収20万ドル前後とする論文が発表されるなど、研究者間の議論は今も続いています。
- 「幸福感」の測り方は一つではない。 「今の気分」を聞く経験的幸福感と、「人生全体への満足度」を聞く人生評価は、性質の異なる指標です。この記事で扱ったのは主に前者(感情的幸福感)についての結果です。
よくある質問
今日の3行まとめ
残り8割にとって、幸福感は収入とともに上がり続け、最も幸せな層では伸びがむしろ加速していたと報告されています。「お金で幸せは買えない」は、誰にでも当てはまる話ではありません。
こうした「有名な説が、後の研究で塗り替えられる」科学の営みそのものに興味が湧いた人は、サイエンスラボの記事一覧もあわせてどうぞ。
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- Kahneman, D., & Deaton, A. (2010). High income improves evaluation of life but not emotional well-being. Proceedings of the National Academy of Sciences, 107(38), 16489–16493. 論文を見る
- Killingsworth, M. A. (2021). Experienced well-being rises with income, even above $75,000 per year. Proceedings of the National Academy of Sciences, 118(4), e2016976118. 論文を見る
- Killingsworth, M. A., Kahneman, D., & Mellers, B. (2023). Income and emotional well-being: A conflict resolved. Proceedings of the National Academy of Sciences, 120(10), e2208661120. 論文を見る
- Mellers, B., Hertwig, R., & Kahneman, D. (2001). Do Frequency Representations Eliminate Conjunction Effects? An Exercise in Adversarial Collaboration. Psychological Science, 12(4), 269–275.