メールの返信を打ちながら、オンライン会議の音声にも耳を傾けている。チャットの通知を確認しながら、資料も作り続けている。多くの人が「同時にこなせている」と感じるこの状態、脳の中では実際に何が起きているのでしょうか。

心理学・認知科学の実験が繰り返し示してきたのは、人間の脳は本当の意味では2つの頭を使う作業を同時に処理できないという事実です。やっているのは同時進行ではなく、高速な"切り替え"。そしてその切り替えには、目に見えないコスト(時間のロス)が必ず発生します。さらに厄介なことに、「自分はマルチタスクが得意だ」と思っている人ほど、実験ではむしろ苦手な傾向にあったという結果も報告されています。4本の論文から、"マルチタスクの正体"を見ていきましょう。

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なぜ「同時にできている」と感じてしまうのか

厳密に言えば、脳が本当に並行処理できるのは、片方がほぼ自動化された動作の場合だけだとされています。歩きながら会話をする、食器を洗いながら考えごとをする——こうした組み合わせは、片方の作業がすでに体に染みついているため、大きな負担にはなりません。

問題になるのは、どちらも「考える」ことを必要とする作業を同時にこなそうとする場合です。心理学ではこれを「タスクスイッチング(課題切り替え)」と呼び、実際には2つの作業を同時にやっているのではなく、注意をものすごい速さで行ったり来たりさせているだけだと説明されます。その切り替えの一瞬一瞬に、どれだけの時間とエネルギーが消えているのかを、研究者たちはミリ秒単位で測ってきました。

実験:切り替えの一瞬をミリ秒単位で測る

この分野の基礎になっているのが、ミシガン大学のJoshua S. Rubinstein、David E. Meyer、Jeffrey E. Evansが2001年に『Journal of Experimental Psychology: Human Perception and Performance』誌で発表した4つの実験です。参加者は、図形を分類するルールや、四則演算の種類を切り替えながら課題をこなしました。同じ課題を続けて解く条件と、課題を交互に切り替える条件とで反応時間を比較する、というシンプルな設計です。

次に紹介するのは、切り口がまったく違う実験です。スタンフォード大学のEyal Ophir、Clifford Nass、Anthony D. Wagnerは2009年、『Proceedings of the National Academy of Sciences(PNAS)』誌に、262人の大学生を対象にした研究を発表しました。まずアンケート(メディア・マルチタスキング指数)で「ふだんどれくらい複数のメディアを同時に使うか」を尋ね、参加者を重度のマルチタスカー軽度のマルチタスカーに分類。そのうえで、余計な情報に惑わされずに課題へ注意を向けられるかを調べる複数の認知テスト(課題切り替えテスト、記憶テスト、無関係な刺激を無視するテストなど)を両グループに受けさせ、成績を比較しました。

💡 この実験デザインが面白い理由 Ophirらの実験がユニークなのは、「マルチタスクをしている最中の成績」ではなく、ふだんマルチタスクをしがちな人は、マルチタスクをしていない瞬間の認知能力そのものが違うのかを調べた点です。習慣が能力そのものに影響しているかもしれない、という一歩踏み込んだ問いでした。

結果:「得意」と思う人ほど、実験では苦手だった

Rubinsteinらの実験で確認されたのは、課題を切り替えるたびに反応時間が明らかに遅くなるという結果でした。しかもこの切り替えコストは、ルールが複雑な課題ほど大きくなり、事前に「次はこの課題です」と合図(キュー)を与えても完全にはゼロにならないことが分かりました。切り替えの一回一回はコンマ数秒でも、1日のうちに何度も繰り返されれば無視できない量になります。米国心理学会(APA)はこの分野の研究を要約した解説記事の中で、こうした細切れの中断が積み重なると、生産的な時間の最大40%程度が失われうるという研究者(David E. Meyer)の見解を紹介しています。

そしてOphirらの実験で明らかになったのは、直感に反する結果でした。日常的にメディアを同時に使う習慣がある重度のマルチタスカーのグループは、課題切り替えテストの成績がむしろ悪く、無関係な情報や記憶に気を取られやすい傾向が確認されたのです。多くの重度マルチタスカーは自分自身を「マルチタスクが得意」だと考えていましたが、テストの結果はその自己評価とは逆でした。

研究調べたこと分かったこと
Rubinstein et al. (2001)課題切り替え時の反応時間切り替えのたびに遅延が発生。複雑な課題ほど大きい
Ophir et al. (2009)重度/軽度マルチタスカーの認知テスト成績重度の群のほうが無関係な情報に気を取られやすい
図1:1つの作業に集中した場合と、こまめに切り替えた場合の生産性の目安
100% 最大60%程度 1つの作業に集中 こまめに切り替え (最大40%の生産的な時間が失われるとの見解) 100% 0%
切り替えのコストは1回あたりわずかでも、繰り返されると無視できない量になる。APAが紹介する研究者の見解では、最大で生産的な時間の4割ほどが失われるとされている。
出典:American Psychological Association「Multitasking: Switching costs」(David E. Meyerらの研究の要約)をもとに作図。厳密な実測値ではなく、研究者による推定の目安
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なぜこうなるのか:脳は前の作業を"置き忘れた"まま次に進む

Rubinsteinらは、課題を切り替えるとき脳の中で「ゴールシフト(目標の切り替え)」「ルール活性化(次の課題のルールを呼び出す)」という2つの処理が順番に行われるというモデルを提案しています。事前に「次はこの課題」と合図を与えても切り替えコストが消えなかったのは、後半の「ルール活性化」が、実際にその課題を始めるタイミングにならないと完了しない処理だからだと考えられています。

さらにワシントン大学のSophie Leroyが2009年、『Organizational Behavior and Human Decision Processes』誌に発表した研究は、もうひとつの見落とされがちな理由を明らかにしました。人はある作業を中断して次の作業に移ったとき、前の作業への意識の一部が、そのまま次の作業にまで持ち越されてしまうというのです。Leroyはこれを「アテンション・レジデュー(注意の残留)」と名付けました。特に前の作業が「未完了のまま」「時間に追われて」中断された場合ほど、この残留は大きくなり、次の作業の成績を下げていたと報告されています。

図2:課題を切り替えるときに脳の中で起きていること(イメージ図)
作業A ゴールシフト ルール活性化 作業B この2段階の処理が、切り替えのたびに挟まる 作業A(未完了) アテンション・レジデュー 作業B(成績低下) 前の作業への意識の残りが、次の作業にまで持ち越される
切り替えるたびに「目標の入れ替え」という手間が挟まり、しかも前の作業への意識の一部が残ったまま次の作業を始めてしまう。これが切り替えコストの正体とされている。
Rubinstein et al. (2001)の二段階モデルとLeroy (2009)のアテンション・レジデューの概念をもとにしたイメージ図(実測の信号ではありません)

この話、こう使える

雑談のネタにするなら、こう覚えておくと強いです。「マルチタスクは特技ではなく、脳への負担そのもの」。特に頭を使う作業を並行させようとするほど、切り替えのたびに時間とエネルギーが漏れていきます。

実践面での使い方は、朝の作業ほど効きます。1日のうちで最も集中力が高いとされる朝の時間に、あえてメールとチャットと資料作成を同時に開いておく必要はありません。1つの作業を、区切りのいいところまで終わらせてから次に移るだけで、Leroyの研究が示した「注意の残留」を減らせます。どうしても中断せざるを得ないときは、「次にどこから再開するか」を一行メモしてから離れると、残留が軽くなるという指摘もあります。通知への向き合い方については、スマホの通知が集中を壊す仕組みを扱った記事もあわせて参考にしてみてください。

注意点:この研究の限界

⚠️ 「マルチタスクが原因で能力が落ちた」とは言い切れない Ophirらの研究は相関関係を示したものであり、マルチタスクの習慣そのものが認知能力を下げたのか、それとも元々注意のコントロールが苦手な人ほどマルチタスクをしがちなのかは、この実験だけでは区別できません。研究チーム自身もこの点を課題として挙げています。

よくある質問

「ながら作業」が全部悪いというわけではないですよね?
その通りです。研究で問題にされているのは、どちらも注意を必要とする作業を同時にこなそうとする場合です。歩きながら音楽を聴く、食器を洗いながら考えごとをするといった組み合わせは、片方がほぼ自動化された動作なので大きな切り替えコストは生じにくいとされています。厄介なのは、メールの文面を考えながら会議の話を聞く、資料を作りながらチャットに返信するといった「どちらも頭を使う」組み合わせのほうです。
自分が「重度のマルチタスカー」かどうかは、どうすれば分かりますか?
Ophirらの研究では、参加者に「作業中どれくらいの頻度で複数のメディアを同時に使うか」を尋ねるアンケート(メディア・マルチタスキング指数)を使って、重度・軽度のグループを分けています。日常的な目安としては、作業中にスマホの通知・チャット・メール・動画などをどれくらい同時に開いているかを振り返ってみるとよいでしょう。ただし、この記事で紹介した研究だけで自分のタイプを診断できるわけではない点には注意してください。
仕事でどうしても同時に対応しなければいけない場面では、どうすればいいですか?
完全に避けられない場面はあります。その場合は「同時にやる」のではなく「素早く区切って切り替える」ことを意識するのが現実的です。Leroy(2009)の研究では、前の作業を中途半端なまま離れるよりも、時間を区切ってでも一区切りつけてから次に移ったほうが、注意の残留(アテンション・レジデュー)が少なく次の作業の成績が良かったと報告されています。「同時にやる」より「速く区切って渡す」ほうが、脳への負担は小さいと言えます。

今日の3行まとめ

📌 これだけ持ち帰ってください 脳は2つの頭を使う作業を本当の意味で同時にはこなせず、実際には高速な"切り替え"をしているだけです。
切り替えのたびに、目標の入れ替えという手間と、前の作業への意識の残り(アテンション・レジデュー)というコストが発生します。
朝の集中したい時間ほど、1つの作業を区切りよく終えてから次に移ることが、いちばん手軽な対策です。

集中力にまつわる研究をもっと読みたい人は、判断疲れをめぐる研究もあわせてどうぞ。脳の実行機能がどう消耗していくかを、別の角度から扱っています。

💡 集中力ネタが好きな人へ

マルチタスクの正体のように、調べるほど意外な脳と行動の話は他にもたくさんあります。息抜きがてら、思わず人に話したくなる雑学もチェックしてみてください。

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参考文献