もし今のあなたのDNAが「本来ならこのくらいの身長になるはずだ」と告げていて、実際の身長がそれより何センチも低かったとしたら——その"差"は、どこに消えたのでしょうか。
約1万年前、人類が狩猟採集から農業へ移り変わったとき、まさにこの"差"が生まれていたと報告する研究があります。古代の骨とDNAを突き合わせたところ、新石器時代の人々の身長は、遺伝的に予測される値より一時的に約3.8cmも低かったというのです。農業は人類に豊かさをもたらしたはずなのに、なぜ身長という形でしっぺ返しが来たのか。さらに、この"定説"に真正面から異を唱える研究が2025年に発表され、議論はまだ終わっていません。論文をもとに、この"身長の謎"を追いかけます。
なぜ"農業は人類を進歩させた"とは言い切れないのか
農業の始まり(農業革命・新石器革命)は、学校の歴史の授業では「人類が安定した食料を手に入れ、文明を築く土台になった出来事」として教わることが多いはずです。狩りや採集に頼る不安定な暮らしから、作物を計画的に育てて蓄える暮らしへ。人口も右肩上がりに増えていきました。
ところが、骨を調べる人類学(骨考古学)の分野では、1980年代から違う見方が提示されてきました。人口が増えたことと、ひとりひとりの健康が改善したことは、必ずの話ではないという見方です。アラン・コーエンとジョージ・アルメラゴスが1984年にまとめた研究書では、農業への移行期に、むしろ身長が縮み、骨に栄養不足や感染症の痕跡が増える集団が各地で見つかると報告され、当時は大きな論争を呼びました。
この見方を裏付けるように、Amanda Mummertらが2011年に『Economics & Human Biology』誌に発表した総説(これまでの研究をまとめて評価する論文)では、中国・東南アジア・ヨーロッパ・南北アメリカなど世界各地の骨格データを見渡したところ、農業への移行期に身長が低くなる傾向が、場所を問わず広く確認できると報告されています。密集した定住生活や家畜との近接が感染症を増やし、限られた種類の作物に依存する食生活が栄養の偏りを生んだのではないか、という説明が提案されました。
とはいえ、ここまでの研究は「骨の長さ」だけを見たものです。身長が低い人がもともと遺伝的に低かったのか、それとも本来はもっと高くなれたはずなのに環境のせいで縮んだのか——骨だけでは、この2つを区別できません。この壁を破ったのが、古代DNAを使った次の研究でした。
実験:骨の長さと"DNAが予言する身長"を比べる
Stephanie Marciniakとペンシルベニア州立大学のGeorge H. Perryらの研究チームが2022年に『PNAS(米国科学アカデミー紀要)』誌に発表した研究は、発想そのものが独創的でした。骨から測った実際の身長(骨格身長)だけでなく、同じ人物の古代DNAも解析し、現代人の大規模なゲノム研究(身長に関わる遺伝子変異を網羅的に調べたGWAS)の知見を当てはめて、その人が本来持っていたはずの"遺伝的な身長のポテンシャル"を推定したのです。
対象は、旧石器時代後期から鉄器時代まで、約3万8000年前から2400年前にわたるヨーロッパの167人分の人骨とDNAです。各時代の人々について、「遺伝的に予測される身長」と「実際に骨から測った身長」のギャップを計算し、時代が進むにつれてこのギャップがどう変化したかを統計的に比較しました。
結果:新石器時代は"予測より3.8cm低い"状態だった
解析の結果、新石器時代の人々の骨格身長は、旧石器時代後期・中石器時代の人々と比べて、遺伝的に予測される身長よりも平均約3.82cm低いという差が見つかりました(統計的な有意差の目安であるP値は0.040)。その後の時代と比べても約2.21cm低く(P値0.068)、新石器時代が"谷"になっている形です。
興味深いのは、その後の変化です。身長のギャップは時代を追うごとに縮まっていき、新石器時代を基準にすると、銅器時代で約1.95cm、青銅器時代で約2.70cm、鉄器時代で約3.27cmの"回復"が確認されました。農業が始まった直後に生じた落差は、その後の数千年かけて徐々に埋められていったことになります。
さらに研究チームは、各個人の遺伝的な祖先系統(ゲノム全体に占めるルーツの違い)の影響を補正する分析も行っています。その場合、新石器時代と旧石器時代後期・中石器時代との差は約2.82cmに縮まり、統計的な有意差としては弱くなりました(P値0.120)。つまり、"谷"の一部は祖先系統の変化そのものでも説明でき、残りの部分が環境要因(感染症や栄養状態)によるものではないか、という結論です。
なぜ"伸びしろ"があるのに縮むのか
遺伝的には伸びる力を持っていたのに、実際には低いまま。この現象は、建物の設計図と実際の建築になぞらえると分かりやすいかもしれません。DNAが示す"遺伝的な身長のポテンシャル"は、いわば「何階建てまで建てられるか」という設計図の上限です。しかし実際に何階まで建つかは、工事の予算や材料——つまり子ども時代の栄養状態や感染症の有無——に左右されます。設計図は立派でも、資材が足りなければ低い建物しか建ちません。
農業が始まったことで起きた変化を考えると、この"資材不足"が起きやすい条件が重なっていたと考えられます。ひとつは、定住による人口密度の上昇と家畜との近接です。密集した暮らしは、感染症が広がりやすい環境をつくります。感染と戦うために使われたエネルギーは、本来なら骨や身体を伸ばすために使われるはずのエネルギーでもあります。もうひとつは、食生活の変化です。狩猟採集では季節ごとに多様な動植物を食べていたのに対し、初期の農業では穀物など少数の作物に依存する度合いが高まり、栄養のバランスが崩れやすかったと指摘されています。
この話、こう使える
何千年も前の身長の話は、一見すると今の生活には関係なさそうに思えます。しかし、この研究が示した「遺伝的なポテンシャルと、実際に発揮される身長は別物であり、その差を生むのは成長期の環境である」という構図そのものは、現代にもそのまま当てはまる考え方です。
身長は、歴史人口学や経済史の研究では、ある時代・地域に生きた人々の生活水準をおおまかに測る"ものさし"としてしばしば使われます。文献に残る記録がない時代や集団でも、骨さえ残っていれば、その集団がどれくらい栄養や健康の負荷を抱えていたかを間接的に推測できるからです。今回紹介したような研究は、歴史の中の"見えない苦しさ"を数字として浮き上がらせる手法のひとつだと言えるでしょう。身の回りで「あの時代は大変だったらしい」という話を聞いたときに、こうした骨とDNAからの裏付けがあるかどうかを調べてみると、歴史の見え方が変わってくるかもしれません。
注意点:この研究の限界
ここまで読むと「農業のせいで人類は縮んだ」と結論づけたくなりますが、実はこの定説自体が、最近になって大きく揺らいでいます。正直に書いておきます。
- サンプル数はいずれも、現代の大規模ゲノム研究に比べると小さい。 Marciniakらの167人、Mathiesonらの659人は、古代DNA研究としては大規模ですが、数十万人規模の現代人研究と比べれば統計的なゆらぎの影響を受けやすい規模です。
- 遺伝的な身長予測(ポリジェニックスコア)は、身長のばらつきの一部しか説明できない。 現代人のGWASで分かっている身長関連の変異をすべて集めても、身長の違いを完全には説明できないとされています。古代人に当てはめる際には、さらに不確実性が増します。
- 対象はヨーロッパおよび西ユーラシアの集団に限られる。 中国・東南アジア・南北アメリカなど他地域でも身長の低下が報告されていますが(Mummert et al., 2011)、それぞれの地域で遺伝的な要因がどこまで関わっていたかは、まだ同じ手法で検証されていません。
- 相関と因果の違いに注意。 「農業への移行期と身長の低下が同時期に起きた」ことと、「農業が身長の低下を引き起こした」ことは、厳密には別の主張です。感染症や食生活など複数の要因が絡み合っており、単純な一対一の因果関係として語るのは正確ではありません。
よくある質問
今日の3行まとめ
その差は銅器・青銅器・鉄器時代と時代を経るごとに縮まっていきましたが、原因が環境(感染症・栄養)なのか遺伝的なルーツの変化なのかは、2025年の新しい研究によって再び議論の的になっています。
骨とDNAという"二つの記録"を重ね合わせることで、歴史の中の見えない苦しさが数字として浮かび上がってきます。
古代DNAが歴史の常識を書き換えた話をもっと知りたい人は、黒死病を生き延びた遺伝子が現代の自己免疫疾患リスクに関わっていた話もあわせてどうぞ。数百〜数千年前の出来事が、今の私たちの体に刻まれているという共通点があります。
遺伝的なポテンシャルと実際の結果にギャップが生まれるのは、身長だけの話ではありません。英語力も同じで、思い込みと実際の実力にはズレがあるものです。当サイトの語彙力テストで、今の自分の実力を数字で確認してみませんか。
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- Mummert, A., Esche, E., Robinson, J., & Armelagos, G. J. (2011). Stature and robusticity during the agricultural transition: Evidence from the bioarchaeological record. Economics & Human Biology, 9(3), 284–301. 論文を見る
- Marciniak, S., Bergey, C. M., Silva, A. M., et al.; Perry, G. H. (2022). An integrative skeletal and paleogenomic analysis of stature variation suggests relatively reduced health for early European farmers. Proceedings of the National Academy of Sciences, 119(15), e2106743119. 論文を見る
- Mathieson, I., et al. (2025). Effects of ancestry, agriculture, and lactase persistence on the stature of prehistoric Europeans. Current Biology(bioRxiv先行公開版). 論文を見る