ルーレットを回して、出た目を見せる。それだけの動作で、まったく無関係な質問への答えが変わるとしたら——信じられるでしょうか。
これは心理学の実験でくり返し確認されてきた「アンカリング効果(anchoring effect)」と呼ばれる現象です。最初に提示された数字が「錨(いかり=anchor)」のように判断を固定し、その後の見積もりを引きずってしまう。しかも厄介なのは、この効果が素人だけでなく不動産鑑定のプロにも、しかも「ランダムだと分かっている数字」にも働くという点です。
ルーレットの実験から、不動産鑑定士を狂わせた実験、自分の社会保障番号で値付けが変わった実験まで、3本の論文をもとに正体を追いかけます。
なぜ無関係な数字に判断が引きずられるのか
私たちは日常のあちこちで「よく分からない数字」を見積もっています。福袋の中身は元値でいくらか、あの企業の時価総額はどれくらいか、隣の家はいくらで売れそうか。こうした不確実な状況での数値の見積もりを、心理学では古くから研究の対象にしてきました。
1974年、心理学者のAmos Tversky と Daniel Kahnemanは、こうした見積もりの裏に働く「近道の思考(ヒューリスティック)」を3種類にまとめた論文を『Science』誌に発表しました。そのうちのひとつが、アンカリングと調整(anchoring and adjustment)と呼ばれる仕組みです。
考え方はこうです。人は何かを見積もるとき、いきなり答えを出すのではなく、まず手元にある数字を出発点(アンカー)にして、そこから「もう少し多いはず」「もう少し少ないはず」と調整していく。ところが、この調整がたいてい不十分なままで止まってしまう。結果として、最終的な答えは出発点の数字に近いところに引き寄せられてしまう——というのが提案された仕組みです。
問題は、この「出発点」が答えとまったく関係のない数字であっても機能してしまうことでした。
実験:ルーレットと不動産と、自分の社会保障番号
Tversky と Kahnemanが行った実験のひとつは、いたってシンプルな仕掛けでした。被験者の前で「0〜100」の目盛りがついたルーレットを回します。ただしこのルーレットは細工されており、出る目は10か65のどちらかしかありません。ルーレットが止まったあと、被験者にはこう尋ねます。「国際連合(UN)に加盟しているアフリカ諸国の割合は、何パーセントだと思いますか」。
ルーレットの目と、アフリカ諸国の加盟割合には何の関係もありません。被験者自身もそれは分かっています。それでも研究チームは、ルーレットの目を見せたあとの回答を、10が出たグループと65が出たグループで比較しました。
2つ目は、より実務に近い舞台で行われた実験です。1987年、Gregory NorthcraftとMargaret Nealeは、アリゾナ州タクソンで実際に売りに出されていた住宅を使い、不動産業者と学生に現地を見学してもらいました。参加者には、物件の相場を判断するために普段プロが使うのと同じ10ページの資料(近隣の取引事例や物件情報)を渡します。ただし、資料に記載する「表示価格」だけを条件によって変え、その後に「妥当な購入価格」「妥当な売却価格」などを見積もってもらいました。
3つ目は、数字の出どころがさらに個人的な実験です。2003年、Dan Ariely・George Loewenstein・Draezen Prelecの研究チームは、MITの学生55名に、ワインボトルやパソコン周辺機器、高級チョコレートなど6つの商品を見せました。そのうえで、まず「自分の社会保障番号(アメリカの個人番号)の下2桁と同じ金額でこの商品を買いますか」と尋ね、そのあとに「実際にいくらまでなら払ってもいいか(支払意思額)」を答えてもらいました。社会保障番号の下2桁は、当然ながら商品の価値とは無関係な、ほぼランダムな数字です。
結果:予想は20ポイントもズレ、鑑定額は1万ドル以上動いた
ルーレット実験の結果は、研究者たちの予想を超えるものでした。ルーレットの目が10だったグループの回答の中央値は約25%、65だったグループの回答の中央値は約45%。アフリカ諸国の国連加盟割合という、ルーレットとは何の関係もない質問への答えが、20ポイントも違っていたのです。
不動産の実験でも、同じ構図が確認されました。表示価格を実際の鑑定額より低く設定したケースと高く設定したケースを比べたところ、参加者が見積もる妥当な価格は表示価格の方向に1万ドル以上動いたと報告されています。しかも、この効果に差がなかった集団がひとつだけありました。不動産業者(プロ)と学生(素人)です。業者の多くは「自分は表示価格になど左右されない」と自信を持って答えていたにもかかわらず、実際の鑑定額は素人の学生と同じように動いていました。経験や専門知識が、アンカリングへの免疫にはならなかったのです。
社会保障番号の実験の結果は、さらに奇妙に感じられるかもしれません。下2桁の数字が大きかった学生ほど、その後に答えた支払意思額(WTP)も高くなるという関係が、6つの商品すべてで確認されました。研究チームはこの現象を「一貫した恣意性(coherent arbitrariness)」と名付けています。品質の良い商品には高く、悪い商品には安くという「一貫した」判断はできているのに、その水準そのものは自分の誕生日や番号のような「恣意的」な数字にコントロールされてしまう、という意味です。
なぜこうなるのか
メカニズムについては、いくつかの説明が提案されています。ひとつは、Tversky と Kahnemanが最初に唱えた「不十分な調整」という考え方です。人はアンカーから出発して答えを探すとき、「もっともらしい」と感じた時点で調整をやめてしまう。そのため、最終的な答えはアンカーの近くに留まりやすくなります。
もうひとつ有力視されているのが、「選択的アクセス」という説明です。提示された数字を検討している間、脳はその数字と一致する情報を優先的に探し始めます。65という数字を見た直後は、「アフリカには国がたくさんある」「国連加盟国は意外と多い」といった、65寄りの理由が頭に浮かびやすくなる。逆に10を見た直後は、逆方向の理由が浮かびやすくなる——というものです。つまり、アンカーは答えを直接引っぱるだけでなく、その後の思考の材料集めそのものを歪めている可能性があります。
さらに、脳の意思決定に関わる神経科学の研究では、アンカーの提示と最終的な見積もりの近さに、注意や記憶に関わる領域の活動が関係している可能性も報告されています。ただし、この領域は現在も研究が進んでいる途中であり、単一のメカニズムだけで説明がついたわけではありません。
この話、こう使える
アンカリング効果を知っておくと、日常のいくつかの場面で「引きずられていないか」を点検できるようになります。
- 値札や「参考価格」をいったん視界から外して考える。 セール品の「元値〇〇円」という表示は、それ自体がアンカーとして機能します。「安く感じるかどうか」ではなく、「その商品に自分がいくら払いたいか」を先に考えてから値札を見る、という順番の入れ替えが効果的です。
- 交渉では、可能なら自分から数字を出す。 複数の研究で、価格交渉において先に数字を提示した側が、その後の合意額を自分に有利な方向へ引き寄せやすいことが報告されています。ただし、あまりに現実離れした数字は相手の不信感を招き、交渉そのものを壊しかねないという指摘もあるため、「根拠のある範囲内で先に言う」のが現実的です。
- 大きな決断の前には、複数の見積もりを先に集めておく。 不動産や車のように高額な買い物では、最初に見た1件の価格がその後の「相場感」そのものになりがちです。最初の1件を見る前に、複数の相場情報に触れておくことで、特定の数字に判断全体を支配されにくくなります。
- 自分の直感の"出どころ"を一度疑ってみる。 「なんとなくこれくらいが妥当」と感じたとき、その感覚がどこから来たのかを一歩戻って考える習慣は、アンカリングに限らず判断の癖全般を点検するのに役立ちます。
注意点:この研究の限界
- 効果の大きさには個人差・条件差がある。 アンカリング効果そのものは非常に頑健に再現される現象とされていますが、効果の強さは課題の種類や個人の知識量によって変動することが報告されています。「必ず20ポイントズレる」といった一律の数値ではありません。
- 実験室の課題と、複雑な現実の意思決定は同じではない。 ルーレットや国連加盟国の割合は、答えを知らない参加者にとって「当てずっぽうで答えるしかない」課題です。すでに十分な知識や強い確信がある領域では、アンカーの影響は弱まると考えられています。
- 不動産の実験は1980年代のアメリカ・タクソンという特定の市場での結果。 別の国・別の時代の不動産市場でも同じ大きさの効果が出るとは限りません。
- 相関と因果を混同しない。 「アンカーの数字が大きいほど見積もりも大きい」という関係は、実験によって数字を人為的に操作して確かめられたものであり、単なる偶然の相関ではありません。ただし、個々の被験者内で見たときにどの程度の影響が働くかは、状況によって幅があります。
よくある質問
今日の3行まとめ
不動産のプロでさえ、表示価格ひとつで鑑定額が1万ドル以上変わりました。知識や経験は、アンカリングへの免疫にはなりません。
値札や最初に聞いた数字を、そのまま「相場」だと思い込まないこと。それだけでも、判断の引きずられ方は変わってきます。
自分の判断が感覚に頼りすぎていないか気になった人は、語彙力テスト(CEFR判定)のような客観的な指標や、サイエンスラボの他の記事もあわせてどうぞ。
アンカリング効果が教えてくれるのは、人の直感がいかに簡単な数字ひとつで引きずられるかということ。英語力についても、感覚ではなく客観的なテストで確かめてみましょう。
英語脳年齢テストをやってみる →参考文献
- Tversky, A., & Kahneman, D. (1974). Judgment under Uncertainty: Heuristics and Biases. Science, 185(4157), 1124–1131. 論文を見る
- Northcraft, G. B., & Neale, M. A. (1987). Experts, Amateurs, and Real Estate: An Anchoring-and-Adjustment Perspective on Property Pricing Decisions. Organizational Behavior and Human Decision Processes, 39(1), 84–97. 論文を見る
- Ariely, D., Loewenstein, G., & Prelec, D. (2003). "Coherent Arbitrariness": Stable Demand Curves Without Stable Preferences. The Quarterly Journal of Economics, 118(1), 73–106. 論文を見る