自分では「何も見えていない」と断言する男性が、箱やゴミ箱が無造作に置かれた通路を、杖もガイドも使わずに一度もぶつからず歩き切った。本人には、その通路に何が置かれているかすら伝えられていなかった。
これは比喩でもトリックでもなく、脳神経科学の症例として学術誌に記録されている出来事です。学界では「ブラインドサイト(blindsight、盲視)」と呼ばれています。視覚を生み出す脳の部位を両側とも失っても、見るための回路がもう一つ隠れていることを示す現象です。
怒った顔と笑った顔を言い分けられた患者、ランダムな場所に出た光を「見えないのに」指し示せた患者——こうした症例が、1970年代から現在まで積み重ねられてきました。意識にのぼる「見える」という体験と、脳が視覚情報を使って行動することは、実は別物だという話です。
なぜ「視覚皮質を失う」と普通は何も見えなくなるのか
私たちが「見る」とき、目に入った光の情報は目の奥の網膜で電気信号に変わり、脳の後頭部にある視覚皮質(V1、一次視覚野)という領域に大部分が送られます。意識の上で色や形を「見えた」と感じるのは、主にこの部位が働いた結果だと考えられています。
そのため、脳卒中や外科手術でV1が損傷すると、その領域が担当していた視野の範囲が見えなくなります。視野の半分が欠ける症状は半盲(はんもう)、両側のV1をまるごと失うと皮質盲(ひしつもう)と呼ばれ、本人はその範囲について「真っ暗」どころか「何もない」と証言するのが通例です。
ところが1970年代、イギリスの神経心理学者ラリー・ヴァイスクランツ(Lawrence Weiskrantz)らが、この「何も見えない」はずの視野に、奇妙な能力が残っている患者を報告しました。
実験:「見えない」はずの視野に光を当てる
最初に注目されたのは、血管の異常を取り除く手術で右側のV1を切除した患者D.B.です。手術の結果、視野の左半分が見えなくなりました。
ヴァイスクランツらは、D.B.の見えないはずの視野にスポット状の光を映し、「どこに出たか分かるはずはないが、当てずっぽうでいいから指で差してみてほしい」と頼みました。D.B.自身は「何も見えないので無理だ」と繰り返しましたが、研究者に説得されて渋々試したといいます。
その後2007年、トレヴェサンらの研究チームはさらに踏み込んだ実験を行いました。D.B.の見えない視野に、小さくて薄い縞模様の視覚刺激(直径2度程度、コントラスト7%の低コントラストな模様)を映し、「見えた」「見えなかった」のどちらかを無理やり選ばせる課題です。
結果:見えないはずの視野の方が「正答率」が高かった
D.B.は見えない視野に出た光の位置を、でたらめに答えているとは思えない精度で指し示しました。後に自分がその映像を見せられたとき、本人が驚いたと伝えられています。見えていないと信じていた自分が、正しく反応していたからです。
2007年の低コントラスト縞模様の実験では、さらに不思議な結果が出ました。D.B.は見えない視野ではこの刺激を確実に検出できた一方、同じ条件を見えているはずの健常側の視野に映すと、ほぼ当てずっぽうの正答率だったのです。研究チームはこの論文に「ブラインドサイトは"見える視覚"より優れることがあるのか」という問いを、そのままタイトルに掲げました。
そして2008年、別の患者の記録がさらに注目を集めます。ベルギーの研究者デ・ヘルダーらが報告した患者T.N.は、36日間隔で起きた2回の脳卒中により、左右両方のV1を完全に失った医師でした。画像検査でも視覚皮質が機能していないことが確認されています。
研究チームはT.N.に、箱やゴミ箱、三脚などをランダムに置いた通路を一人で歩いてもらいました。障害物があることすら本人には伝えていません。T.N.は杖もガイドもなしで通路を進み、一度も物にぶつかることなく通過しました。
さらに同じT.N.を対象にした2005年のペグナらの研究では、怒り・喜びなどの表情を写した顔写真を見せ、「どの表情に見えるか」を強制的に選ばせています。本人は顔が見えているという自覚を一切持てませんでしたが、表情を当てる課題では偶然を上回る正答を示しました。興味深いのは、表情以外の視覚刺激ではこの能力が確認できなかったことです。このときfMRI(脳の活動を画像化する装置)で右の扁桃体(へんとうたい=感情の処理に関わる脳の部位)が活動していたことも記録されています。
なぜこんな能力が残っているのか
仕組みについては完全に解明されたわけではありませんが、研究者の間で有力とされている説明があります。網膜から脳に向かう視覚の通り道は、実は一本道ではないという考え方です。
情報の大部分は視床(ししょう)の中継地点を経てV1に向かいますが、それとは別に、網膜からの信号の一部は上丘(じょうきゅう=脳幹にある古い構造)や視床の別の部位(視床枕)を経由して、V1を経由せずに扁桃体などへ直接届く経路があるとされています。進化的に古く、多くの動物が持つ「動くものにとっさに反応する」ための回路です。
通常、私たちの意識はV1を通る大きな経路の処理結果に支配されているため、このもう一本の経路の存在に気づきません。しかしV1そのものが壊れると、意識に上がる視覚は消えても、古い経路だけは働き続け、「見えていないのに反応できる」という状態が生まれる——という説明が提案されています。
この話、こう使える
ブラインドサイトが突きつけるのは、「見えた」という自覚と「視覚情報を使って行動する」ことは、脳の中では別の仕事だという事実です。私たちは普段、両者がぴたりと一致しているから気づきませんが、脳の構造としては同じものではありません。
この発想は、最近よく話題になる「AIに意識はあるのか」という議論にも、ひとつの切り口を与えます。画像認識AIは、人間のような視覚意識を持たないまま、写っている物体を正確に処理して行動(自動運転の回避など)につなげています。意識なしに情報処理だけが成立する例を、人間の脳自身が先に見せていたとも言えるわけです。AIと英語学習のように「AIに何が任せられ、何が任せられないか」を考えるときにも、知っておくと面白い視点です。
日常的な教訓を無理に引き出す必要はありません。むしろ、「意識にのぼること」が脳の処理のすべてではないと知っておくこと自体に価値がある話です。
注意点:この研究の限界
- 症例報告が中心で、人数が極めて少ない。 D.B.もT.N.も個人を長期間追跡した単一症例研究です。他の患者に同じ程度の能力が出るとは限りません。
- 患者によって差が大きい。 図1で見たとおり、同じようにV1を損傷してもブラインドサイトが確認される人と確認されない人がいます。損傷の範囲や原因によって結果が変わると考えられています。
- 能力は限定的。 ペグナらの実験でも、T.N.が正答できたのは感情表現を伴う顔に限られ、他の視覚刺激では同様の結果が出ませんでした。「何でも見える」わけではありません。
- 意識の有無を客観的に測る方法自体が議論中。 本人の自己報告に頼る以上、「本当にゼロか、ごくわずかな自覚があるか」を完全に切り分けるのは難しいという指摘もあります。
視覚や脳のしくみに関わる話なので、めまいや視野の異常など気になる症状がある場合は、自己判断せず医療機関に相談してください。
よくある質問
今日の3行まとめ
網膜からの信号は、V1を通る経路のほかに、意識を経由しない古い経路も使っていると考えられている。
「見えた」という自覚は、脳が視覚情報を使っている証拠のすべてではない。
脳の不思議つながりで、デジャヴュはなぜ起こるのかや体外離脱感覚の科学も、意識の仕組みを考えるうえで読み比べると面白い内容です。
意識にのぼらない処理が脳の中で進んでいるように、語彙力や理解力も自分では気づきにくいものです。簡単な質問に答えるだけで診断できます。
英語脳年齢テストをやってみる →参考文献
- Weiskrantz, L., Warrington, E. K., Sanders, M. D., & Marshall, J. (1974). Visual capacity in the hemianopic field following a restricted occipital ablation. Brain, 97(4), 709–728.
- Trevethan, C. T., Sahraie, A., & Weiskrantz, L. (2007). Can blindsight be superior to 'sighted-sight'? Cognition, 103(3), 491–501. 論文を見る
- Pegna, A. J., Khateb, A., Lazeyras, F., & Seghier, M. L. (2005). Discriminating emotional faces without primary visual cortices involves the right amygdala. Nature Neuroscience, 8(1), 24–25. 論文を見る
- de Gelder, B., Tamietto, M., van Boxtel, G., Goebel, R., Sahraie, A., van den Stock, J., Stienen, B. M. C., Weiskrantz, L., & Pegna, A. (2008). Intact navigation skills after bilateral loss of striate cortex. Current Biology, 18(24), R1128–R1129. 論文を見る
- Ajina, S., Pollard, M., & Bridge, H. (2020). The Superior Colliculus and Amygdala Support Evaluation of Face Trait in Blindsight. Frontiers in Neurology, 11, 769. 論文を見る