名前を呼んでも顔すら上げない。ソファの向こうで丸まったまま、耳の先すら動いた気配がない。「うちの猫は自分の名前を分かっていないのでは」と感じたことがある人は多いはずです。
ところが心理学の実験が示してきたのは、まったく逆の結果でした。猫は飼い主の声を他人の声から聞き分け、さらに自分の名前を他の言葉から聞き分けていることが、複数の研究で確認されています。それでも駆け寄ったり鳴いたりしないのは、\"聞こえていない\"からではなく、\"反応の仕方が違う\"だけかもしれません。そしてもうひとつ、猫には人間が見落としがちな独自の\"返事\"の手段があることも分かってきました。ゆっくりとしたまばたき、通称「スローブリンク」です。
東京大学のグループによる声と名前の実験、そしてイギリスの研究チームによるスローブリンクの実験。3本の論文をもとに、猫の\"素っ気なさ\"の裏側を追っていきます。
なぜ猫は「分かっていないように見える」のか
犬と比べられるとき、猫はいつも「愛想がない」「主人という概念がない」と言われがちです。呼べば飛んでくる犬に対し、猫は完全に無視することも珍しくありません。この違いは、家畜化の歴史の差から説明されることが多い動物です。
犬は数万年にわたり、人と一緒に狩りをし、指示に従うことそのものが選抜の基準になってきました。一方で猫が人の暮らしに入り込んだのは、穀物倉庫に集まるネズミを狩るためだったと考えられています。人に従うためではなく、獲物がいる場所にたまたま居着いたという経緯です。人の指示に敏感である必要は、進化の過程であまりなかったことになります。
とはいえ「従う必要がなかった」ことと「聞こえていない・理解していない」ことはイコールではありません。この差を実験で確かめようとしたのが、日本の研究者たちでした。
実験①:飼い主の声を聞き分けているか
東京大学のAtsuko SaitoとKazutaka Shinozukaは2013年、Animal Cognition誌に「Vocal recognition of owners by domestic cats」という論文を発表しました。20頭の飼い猫を対象に、\"馴化-脱馴化法\"と呼ばれる手法を使った実験です。
やり方はシンプルです。猫から飼い主の姿が見えない状態で、まず見知らぬ人の声を3人分、順番にスピーカーから流します。猫の名前を呼ぶ声です。同じような声を繰り返し聞くうち、猫の反応はだんだん薄くなっていきます(=馴化)。そして最後に、飼い主本人の声で名前を呼ぶ音声を流し、反応が復活するかどうかを見ます。
反応は6つの行動カテゴリーに分類され、さらに10人の評価者が反応の強さを採点しました。ポイントは、\"鳴く\"\"尻尾を動かす\"といった分かりやすいコミュニケーション行動ではなく、耳や頭がわずかに動く\"定位行動\"が主に測定対象になっていたことです。
| 研究 | 対象 | 方法 | 分かったこと |
|---|---|---|---|
| Saito & Shinozuka (2013) | 飼い猫20頭 | 他人の声3人→飼い主の声(馴化-脱馴化法) | 声だけで飼い主を区別 |
| Saito et al. (2019) | 飼い猫・猫カフェの猫 計78頭 | 一般名詞4語→自分の名前(馴化-脱馴化法) | 名前を他の言葉と区別 |
| Humphrey et al. (2020) | 飼い猫21頭+24頭 | 飼い主・実験者によるスローブリンク刺激 | 半瞬き・目の細めで応答 |
結果:20頭中15頭が"聞き分けて"いた
結果は明確でした。20頭のうち15頭(75%)が、3人目の見知らぬ声に対する反応の大きさが1人目より下がっており、馴化が成立していたと判定されました。そしてこの15頭は、その後に流れた飼い主の声に対して、統計的に有意な反応の"リバウンド"(再び強くなる現象)を示しました。
一方で、反応の中身は最後まで耳や頭を動かす定位行動にとどまり、鳴いたり尻尾を動かしたりする分かりやすい反応は、飼い主の声に対しても増えませんでした。論文は、この結果を「猫は声だけの手がかりで人を区別できる」ことの証拠だとしつつ、それが\"駆け寄る\"といった行動には直結しないと整理しています。
この結果を受け、Saitoらは2019年にScientific Reports誌でさらに一歩進んだ実験を行いました。今度は声そのものではなく、「名前」という言葉の中身を聞き分けられるかを調べたのです。一般家庭と猫カフェから集めた合計78頭の猫に、長さやリズムをそろえた4つの一般名詞を順番に聞かせ、最後に自分の名前を聞かせました。
結果、一般家庭で暮らす猫たちは、一般名詞からも、同居している他の猫の名前からも、自分の名前をはっきり区別していました。見知らぬ人が名前を読み上げた場合でも、この区別は成立していたと報告されています。興味深いのは、猫カフェの猫たちは一般名詞と自分の名前は区別できたものの、同居猫の名前と自分の名前の区別だけはできなかったという点です。多数の猫や来店客と暮らす環境では、特定の名前と特定の個体を結びつける経験そのものが少なくなるからだと考察されています。
それでも"無視"ではない証拠:スローブリンクの発見
ここまでの2本は「聞こえている・区別できている」ことを示す研究でした。では猫の側から人間に向けて発している\"返事\"は、本当に何もないのでしょうか。この問いに取り組んだのが、イギリス・サセックス大学のTasmin Humphreyらのチームです。
2020年にScientific Reports誌に発表された研究は、猫がよく見せる「ゆっくりと半分目を閉じ、そのあとしばらく細めた状態を保つ」動作――通称スローブリンク――に注目しました。実験1では14世帯・21頭の飼い猫を対象に、飼い主にスローブリンクをしてもらう条件と、無表情のまま何もしない条件を比較。結果、半瞬きと目の細めの回数は、スローブリンク条件のほうが有意に多く発生しました(半瞬き回数の平均:スローブリンク条件5.33回 vs 対照条件1.94回、z=2.92, p=0.007)。
さらに実験2では、猫にとって見知らぬ実験者にスローブリンクをしてもらいました。対象は8世帯・24頭。無表情の顔を向けたときより、スローブリンクをしたときのほうが、猫が実験者に近づく傾向が高くなることが確認されました。飼い主でなくても、この\"合図\"は伝わるということです。
研究チームは、スローブリンクが人と猫のあいだのポジティブな感情のやり取りの一形態として機能している可能性があると結論づけています。
なぜこんな"すれ違い"が起きるのか
犬は人に見つめられると、オキシトシンというホルモンが双方で分泌される\"視線のループ\"が確認されているほど、視覚的なやり取りに最適化された動物だとされています。猫の祖先であるリビアヤマネコは、群れを作らず単独で狩りをする動物でした。仲間に大きな声で呼びかけたり、感情を派手に表現したりする必要が、そもそも少ない生態だったと考えられています。
その一方で、まったくコミュニケーションの回路がないわけでもありません。むしろ声や名前という"聞き取る"チャンネルは犬と遜色ないレベルで機能させつつ、"返す"チャンネルは犬とは違う経路(まばたき)を選んだとみると、辻褄が合います。派手な鳴き声やジェスチャーで返事をする代わりに、目という省エネで安全な部位を使って気持ちを伝える。単独行動をベースにした動物らしい、控えめな\"返事\"の形と言えるかもしれません。
この話、こう使える
研究結果は、日常の猫との関わり方にもそのまま応用できます。
- 名前を呼んでも反応がなくても、気にしすぎない。 耳がピクッと動くレベルの反応まで、ちゃんと目を凝らして観察してみましょう。実は聞こえていることが多いはずです。
- 猫と目が合ったら、ゆっくりまばたきをしてみる。 Humphreyらの実験と同じように、半分閉じる動作を数回繰り返してから、ゆっくり目を閉じる。猫が同じように応じてくれたら、それは立派な\"会話\"です。
- 初対面の猫にも試せる。 実験2では見知らぬ実験者に対しても効果が見られました。警戒されがちな初対面の猫には、いきなり手を伸ばすより先にスローブリンクを試すのも一つの手です。
こうした「実験で確かめられた現象を、日常の行動に落とし込む」という考え方は、英語学習にもそのまま通じます。当サイトのサイエンスラボでは、記憶や集中力に関する研究を英語学習向けに翻訳した記事も多数公開しています。あわせて、思わず誰かに話したくなる雑学は英語の雑学・豆知識のコーナーにもまとまっています。
注意点:この研究の限界
- 相関と因果の違い。 スローブリンクの実験は「スローブリンク→接近しやすくなる」という関連を示していますが、猫が\"好意的な気持ちを伝えようとして\"まばたきをしているのか、別の理由(リラックス状態の副産物など)なのかまでは断定できていません。
- 猫カフェと家庭の違い。 Saitoら(2019)の研究では、猫カフェの猫は同居猫の名前と自分の名前を区別できませんでした。環境によって結果が変わる以上、\"猫全般\"に一律に当てはめるのは慎重であるべきです。
- \"分かっている\"と\"従う\"は別の話。 名前や声を聞き分けているからといって、呼べば来る・言うことを聞くようになるとは限りません。認知能力と行動のあいだには、まだ埋まっていない距離があります。
- 健康上の問題との切り分け。 高齢の猫で急に反応が鈍くなった場合、聴力の低下や病気が隠れていることもあります。心配な変化があれば、行動の\"個性\"で片づけず動物病院に相談してください。
よくある質問
今日の3行まとめ
それでも駆け寄らないのは\"聞こえていない\"からではなく、従う動機が薄いだけ。
鳴き声の代わりに使っているのがゆっくりとしたまばたき。目が合ったら試してみる価値があります。
「実験で確かめられたことを、そのまま日常に落とし込む」という発想は、英語学習でも同じです。科学的根拠のある学習法を知りたい人は、英会話の独学ロードマップもあわせてどうぞ。
参考文献
- Saito, A., & Shinozuka, K. (2013). Vocal recognition of owners by domestic cats (Felis catus). Animal Cognition, 16(4), 685–690. 論文を見る
- Saito, A., Shinozuka, K., Ito, Y., & Hasegawa, T. (2019). Domestic cats (Felis catus) discriminate their names from other words. Scientific Reports, 9, 5394. 論文を見る
- Humphrey, T., Proops, L., Forman, J., Spooner, R., & McComb, K. (2020). The role of cat eye narrowing movements in cat–human communication. Scientific Reports, 10, 16503. 論文を見る