耳をふさいでいないのに、聞こえていたはずの音が、ある瞬間だけ変わってしまうことがあります。種明かしをすると、音声そのものはずっと「バ」としか言っていません。変わったのは、映像に映っている口の動きだけです。

これは心理学で「マガーク効果(McGurk effect)」と呼ばれる現象です。1976年、ある研究室の録音ミスから偶然発見されたこの錯覚は、音声と映像をわざとズラすだけで、多くの人の耳に誰も発していない第三の音を聞かせてしまいます。

さらに面白いのは、この錯覚の起こりやすさに、人によって、そして言語によっても大きな差があるらしいという報告です。論文4本から、"目が耳を書き換える"仕組みを見ていきましょう。

スポンサーリンク

なぜ"目で聞く"ようなことが起きるのか

人は会話をするとき、音声だけを聞いているわけではありません。無意識のうちに、相手の唇の動きや表情も同時に読み取っています。これは多感覚統合(たかんかくとうごう=目・耳など複数の感覚からの情報を、脳がひとつにまとめて処理するしくみ)と呼ばれる働きの一部です。

特に雑音の多い場所や、発音が聞き取りにくい場面ほど、脳は視覚情報(唇の動き)への依存を強めるとされています。騒がしい居酒屋で、つい相手の口元を見てしまう——あの行動は、この仕組みが働いている証拠かもしれません。

通常、音声と唇の動きはぴったり一致しているため、この"統合"作業が表に出てくることはありません。ところが、音声と映像のあいだに意図的なズレを作ると、普段は隠れているこの仕組みが、思いがけない形で姿を見せます。

実験:録音スタジオの偶然から生まれた錯覚

マガーク効果が世に知られるきっかけになったのは、1976年にHarry McGurkとJohn MacDonaldが『Nature』誌に発表した論文でした。もともと2人は、乳児がどのように言葉を聞き取るかを調べる実験の準備をしていたとされています。

映像に別録りの音声を当てはめる作業の途中、「ガ」と発音している口の映像に、「バ」という音声が重なって再生されるという出来事が起こります。研究室でこの映像を確認した2人が実際に聞いたのは、バでもガでもない「ダ」という、どちらの素材にも存在しない音でした。

この偶然をきっかけに、2人は音声と映像の組み合わせを変えた一連の実験を行います。基本の仕組みはシンプルです。

目を閉じて音声だけを聞けば「バ」、音声を消して映像だけを見れば「ガ」と読み取れる場面です。ところが両方を同時に見聞きすると、多くの人の耳には、どちらでもない融合した音(「ダ」など)が聞こえることが報告されました。

💡 この実験デザインが面白い理由 音声と映像は、それぞれ単独なら正しく聞き取れる・読み取れる素材です。素材そのものが曖昧なわけではなく、脳が2つの正しい情報を"独自に"統合した結果、存在しない第三の答えを作り出してしまう——ここに錯覚としての面白さがあります。
図1:マガーク効果が起こる仕組み
🔊 音声トラック 「バ」 👄 映像トラック(口の動き) 「ガ」 脳が 統合 聞こえた音 「ダ」 ※ 音声も映像も、単独で正しく聞き取れる・読み取れる素材を使っている
音声と映像、それぞれは正しい情報なのに、脳が統合した結果、どちらにも存在しない第三の音が聞こえる。
McGurk & MacDonald(1976)の報告をもとにしたイメージ図(実測値ではありません)
スポンサーリンク

結果:個人差は0%から100%、国によっても差があった

マガーク効果そのものは、その後の追跡研究で何度も確認されてきました。ただし「誰にでも同じように起こる」とは言えないことも、同時にわかってきています。

Basu Mallick, Magnotti, & Beauchamp(2015)は、英語を話す165人の参加者に12種類の音声・映像ペアを提示し、融合した音を聞いたと答えた割合(融合反応率)を個人ごとに調べました。その結果、ある参加者はどの組み合わせを見ても融合した音を一度も感じず(0%)、別の参加者はほぼすべての組み合わせで融合した音を感じた(100%)という、非常に大きな個人差が報告されています。さらに、このうち40人を1年後に再テストしたところ、個人ごとの融合反応率はおおむね安定していたとされ、その日の気分ではなく、ある程度その人固有の特性である可能性が示唆されています。

もう一つ注目されているのが、言語による差です。Sekiyama & Tohkura(1991)は、日本語を母語とする10人を対象に、日本語の音節を使った実験を行いました。

条件日本語話者への影響(Sekiyama & Tohkura, 1991)
音声がはっきり聞こえる(ノイズなし)効果は小さく、音声の聞き取りにくさが残る場合にほぼ限られた
音声が聞き取りにくい(ノイズを加えた)効果は大きく、広い範囲で融合した音が聞かれた

この結果から、研究チームは「日本語版のマガーク効果は、英語版より起こりにくく、音声そのものがどれだけ聞き取りやすいかに左右される」と結論づけています。関連する研究では、日本語話者は英語話者に比べて、視覚情報(唇の動き)に影響される度合いがそもそも小さい傾向があるとも報告されました。

2024年に発表されたMagnotti, Lado, & Beauchamp(2024)の研究では、日本語を母語とする80人を対象に15種類の音声・映像ペアを提示したところ、融合反応が起きる割合は刺激ごとに3%から78%、参加者ごとに0%から91%まで幅があったと報告されています。日本語話者の集団全体として見ても、やはり"全員が同じように錯覚を起こす"わけではないことが、改めて確かめられた形です。

図2:融合反応の個人差(英語話者165人,Basu Mallickら2015)
0% どの組み合わせでも 融合音を感じなかった人もいた 100% ほぼ毎回 融合音を感じた人もいた 0% 50% 100% ※ 165人・12種類の音声・映像ペアでの融合反応率の範囲
同じ刺激を見ても、感じ方は人によって大きく違う。その差は1年後の再テストでもおおむね保たれていた。
出典:Basu Mallick, Magnotti & Beauchamp(2015)の報告をもとに作図

なぜこうなるのか

なぜ脳は、正しく聞こえた音と正しく見えた口の動きを、わざわざ別の第三の答えに統合してしまうのでしょうか。

有力な説明のひとつは、脳が音声と視覚の情報を、それぞれの"信頼度"に応じて重み付けしながら足し合わせている、という考え方です。音声があいまいなときほど視覚の重みが増し、音声がはっきりしているときは視覚の影響が小さくなる——Sekiyama & Tohkura(1991)で、ノイズを加えた条件のほうが効果が強く出たのも、この考え方と一致します。音声という手がかりの"信頼度"が下がった分だけ、脳が視覚という別の手がかりに頼る割合を増やした、と解釈できます。

もう一つの視点は、言語ごとの"聞き取りやすさ"の違いです。Sekiyamaらは、日本語は英語に比べて口の動きが伝える視覚的な情報量が少なく、使われる音の種類(音素)の数自体も少ないため、視覚に頼らずに音声だけで聞き分けやすい言語だという見方を示しています。英語のように音の種類が多く、似た音も多い言語ほど、視覚からの"補足情報"が聞き取りに果たす役割が大きくなる、という理屈です。

たとえるなら、音声は雑音混じりのラジオ放送、映像はその場で配られる"字幕の断片"のようなものです。ラジオの受信状態が良いときは字幕をあまり見ませんが、電波が悪くなるほど、人は無意識に字幕のほうを頼るようになる——マガーク効果は、その"頼り方"が極端な形で表に出た瞬間だと言えます。

🧠 ざっくり言うと 耳は音声だけを、脳は音声と映像の両方を聞いています。"聞く"という体験は、実は耳だけでなく目にも左右されているのです。

この話、こう使える

マガーク効果の実験結果を、そのまま日常の会話に当てはめることはできません。ただ、"視覚が聞き取りを助ける"という仕組みの面白さから、持ち帰れる視点はいくつかあります。

1. 騒がしい場所の会話は、"口元"で聞いている
視覚情報への依存は、音声が聞き取りにくいときほど強まる
居酒屋や工事現場の近くなど、聞き取りにくい場所で大事な話をするときは、相手の顔が見える位置に座る、あるいは音声だけの電話より顔が見えるビデオ通話を選ぶだけで、聞き取りやすさが変わる可能性があります。Sekiyama & Tohkura(1991)が示した「音声が聞き取りにくいほど視覚の影響が強まる」という関係は、逆に言えば、視覚情報を積極的に使えば聞き取りの助けになるということでもあります。
2. 外国語のリスニングは、口の動きも一緒に練習材料にする
視覚情報の使い方は言語ごとに違うという報告がある
Sekiyamaらの研究は、言語によって視覚情報への依存度が異なることを示しています。日本語話者が英語を聞き取る練習をするときも、音声だけでなく、話者の口の動きが見える映像を使うことで、聞き取りの手がかりを一つ増やせる可能性があります。当サイトのシャドーイングとリスニングのページでも、音声だけに頼らない練習法を紹介しています。
3. 「聞き間違えた」が、自分の耳だけのせいとは限らない
脳は音と映像を無意識に足し合わせている
電話会議やオンライン通話で聞き間違いが起きたとき、原因は耳の悪さだけとは限りません。画面に映る相手の口の動きや表情といった視覚情報が、知らないうちに聞こえ方に影響していることもあります。重要な会話では、音声だけに頼らず視覚情報もそろう環境を意識してみるのも一つの手です。

注意点:この研究の限界

⚠️ すべての人が同じように錯覚を起こすわけではない 個人差は0%〜100%まで非常に大きいと報告されています。「自分には効果が起きなかった」としても、それ自体はまったく珍しいことではありません。

よくある質問

マガーク効果は誰にでも起こりますか?
個人差が非常に大きいと報告されています。Basu Mallickら(2015)が英語話者165人に12種類の音声・映像ペアを提示したところ、ある参加者はどの組み合わせでも錯覚をまったく感じず(0%)、別の参加者はほぼすべての組み合わせで感じた(100%)という、非常に広い個人差が見られました。このうち40人を1年後に再テストした結果では、個人ごとの反応しやすさはおおむね安定していたとされ、その日の気分ではなく、ある程度その人固有の特性だと考えられています。
日本語を話す人は、この錯覚が起きにくいのですか?
Sekiyama & Tohkura(1991)などの研究では、日本語話者は英語話者に比べてマガーク効果の影響を受けにくい傾向が報告されています。特に音声がはっきり聞き取れる条件では効果はごく小さく、ノイズを加えて聞き取りにくくした条件のときに効果が強く現れました。研究者は、日本語は口の動きが伝える視覚的な情報量が英語より少なく、使われる音の種類も少ないため、視覚に頼らなくても聞き分けやすい言語だという見方を示しています。ただし参加者数は10人規模の実験であり、この傾向がすべての研究で一致して再現されているわけではありません。
普段の生活で、この錯覚に気づかないのはなぜですか?
日常の会話では、音声と唇の動きが自然にそろっているため、脳が矛盾した情報を統合する場面自体がほとんど発生しません。マガーク効果が目立つのは、実験のように音声と映像を人為的にズラした特殊な場面に限られます。むしろ普段は、この目と耳を統合するしくみのおかげで、雑音の多い場所でも会話の内容を正しく聞き取れていると考えられています。

今日の3行まとめ

📌 これだけ持ち帰ってください 音声が「バ」、映像が「ガ」のとき、多くの人の耳には誰も言っていない「ダ」が聞こえます(マガーク効果)。
これは脳が声と唇の動きを自動的に統合して聞こえる音を決めているために起こり、感じやすさには0%から100%まで非常に大きな個人差があります。
日本語話者は英語話者より影響を受けにくいとする報告もあり、"聞く"という体験は、実は耳だけでなく目にも左右されています。
👂 言語によって"聞き方"が違うなら

マガーク効果のように、母語によって音の聞き取り方が変わる現象は他にもあります。日本人がRとLの聞き分けをどこまで訓練で変えられるかを調べた研究も、あわせてどうぞ。

R/Lの聞き分け訓練の記事を読む →

参考文献